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恐怖の殺人の真実

有名企業エリートOL殺人事件

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有名企業エリートOL殺人事件

「神様、やっていない」「神様、助けてください」

その男は裁判長に向かって叫び、傍聴席を振り向いてもう一度「やってない」と叫んだ。

1997年(平成9年)3月19日午後5時半ころ、東京都渋谷区円山町の木造2階建てのアパートの1階101号室の空き部屋で、会社員児嶋恵子さん(39歳・仮名)が絞殺死体で発見された。

― 遺留品 ―
恵子はバーバリーのベージュのコート、下には青のツーピース、下着には乱れはなかった。
長い髪の毛にはなぜかボールペンが絡まっていた。
ショルダーバッグが残され、口が開いていた。バッグの中にあった財布の中の現金は473円。
未使用のコンドーム28個。
名刺入れの中に名刺があり、都内有名企業名○○<企画部副長 児嶋恵子>とあった。
また、和式水洗便器の洗浄剤水溶液内には使用済みのコンドームがあり、中には精液が残っていた。

― 第一発見者 ―
発見者は家主から鍵を預かり、アパートの管理を任されていた近くのネパール料理店の店長だった。
店長は、前日、101号室の玄関脇の小窓が10センチほど開いたままになっているのに気づき、そこから中を覗くと、仰向けに寝た状態の女の上半身が見えた、
ドアは鍵がかかっておらず、開いた。そこには女ものの靴が一足きちんと揃えてあった。
店長はネパール人の女性だと思い、ネパール語で声をかけたが、返事がないので、熟睡しているものと思い、その場を立ち去った。
だが、次の日、気になってもう一度部屋を覗き、女がまだ同じ格好で寝ているのを見て、もしやと思い、警察に通報した。
捜査本部の調べで、死因は絞殺によるもので、死亡推定日時は3月8日夜から9日未明の間とされた。

― 被害者 ―
恵子は杉並区永福で母親と妹の3人で暮らしていた。
恵子は都内にある会社に勤めていたが、毎日午後5時20分の定時に退社していたにも関わらす、帰宅はほとんど深夜だった。

調査した結果、恵子は1991年(平成3年)頃から勤務後は渋谷区円山町界隈に出没し、すぐ近くの道玄坂のホテル街で売春したり、
なじみの客と待ち合わせをして売春するという毎日を繰り返していたことが判明した。
さらに、1996年(平成8年)6月頃から品川区西五反田のSMクラブに在籍し、勤務先が休日である土日や祭日の午後はクラブの事務室で待機し、客をとっていた。
そのあとは円山町界隈で深夜まで売春していた。

― 高学歴 ―
恵子は大学経済学部を卒業すると、この会社に入社した。

その後、エリートコースを進み、管理職となった。会社では仕事を完全にこなしていたが、服装は地味で、人付き合いもなく、これといった男性との噂も聞かず、孤立した存在だったという。
ちなみに、死別した父親は国立大学出身で、母親も女子大出身、妹も女子大を出ている。

― 最初の容疑者、浮上 ―
恵子の手帳には十数人の男性の名前、電話番号がメモされていた。
殺害があったと推定された8日夜に、一緒に食事をしてホテルへ行った会社員がいることが判明。
この会社員と午後7時10分過ぎ、円山町のホテルにチェックイン。午後10時16分にチェック・アウトした。
この様子は防犯ビデオの映像で確認されており、その後のこの会社員のアリバイは完全だった。

― 第二の容疑者 ―
捜査本部の聞き込みにより、8日午後11時25分頃から45分頃の間に、恵子と思われる女性が東南アジア系の男性と円山町のアパート101号室に入るのを目撃したという男の証言を得た。
また、午後11時45分ごろ、同じアパートの2階に住む女子高生が階段を降りてきて101号室の前を通りかかったとき、中から女の喘ぐような声がもれてくるのを聞いている。
その後、女子高生は9日午前0時半過ぎ、再び自宅を出たが、そのときにはその声は聞こえなくなっていたと証言した。

― オーバーステイ(不法残留)で逮捕 ―
1997年(平成9年)5月20日、ネパール国籍のM(当時30歳)が逮捕された。
Mは事件当時、殺害現場となったアパートの隣のビル401号室にネパール人の仲間4人と一緒に住み、仕事先である千葉市内JR海浜幕張駅近くのインド料理店で働いていた。

Mは妻と2人の子どもを国に残し、1994年(平成6年)2月28日に90日間の短期滞在ビザで来日。
いくつかのレストランの店員として働き、家族に送金していた。5月29日、ビザ失効。以降は違法なステイオーバーが続くことになる。

1996年(平成9年)暮れ、Mは姉が来日するという知らせを受けた。そこで、姉と一緒に暮らしたいと思い、4人の同居人にアパート101号室に移ってほしいと話をもちかけた。
翌年1月、Mはアパートの管理をしていたネパール料理店の店長から同室の鍵を借り、4人に室内を見せた。
だが、部屋代が高いことなどを理由に借りることを渋った。
その後、姉の来日も延期になって、4人が転居する話はなくなっていたが、Mは鍵を店長に返さないままにしていた。これがのちの起訴の根拠のひとつとなる。


Mは3月22日、自ら渋谷署に出向いて、オーバーステイの事実を明かした。
翌23日、警視庁に逮捕・起訴された。5月20日、東京地裁は、入管難民法(出入国管理及び難民認定法)違反(不法残留)で懲役1年・執行猶予3年の判決を受けた。
そしてその日の午後、警視庁により恵子殺害および現金4万円を奪った強盗殺人容疑で逮捕され、6月10日、東京地検に起訴された。

― 長い裁判のはじまり ―
Mは、取り調べから公判に至るまで一貫して恵子殺害を否認した。
また、恵子とは全く面識がないと主張していた。
だが、第25回公判で翻し、恵子に路上で誘われて顔見知りになったと証言。第26回公判では、恵子と3回会ってセックスしたことを認めた。
Mは勤めから帰る途中、恵子に「セックスしませんか。1回5000円です」と声をかけられた。
Mは「ホテル代がない」と言うと、恵子は「どこでも構わない」と言うので、自室へ連れ込んで事に及んだ。
このときは同居人2人も恵子の相手をした。このようなことが3度あった。

― 検察の主張 ―
Mは鍵を管理人に3月6日に返却したと捜査の段階で供述していたが、結局、連日連夜の取り調べで、「3月6日に私が返したというのは嘘でした」という調書を作成された。
検察はこの調書を公判に提出し、「事件当日にはMが鍵を持っていた。だからMが犯人だ」というストーリーを主張した。

― 恵子の手帳 ―
恵子の手帳には次のような記載があった。
1996年
12月12日<?外人3人(401)1.1万>
12月16日<外人(401)0.3万>
1997年
1月29日<?0.5万>
2月28日<?外人0.2万>

― 精液のDNA鑑定 ―
トイレに捨ててあったコンドームの残留精液から検出された血液型はB型で、DNA鑑定を行なった結果、Mのそれと一致した。

検察側はコンドームを使って捨てた日を殺害があったとされた3月8日頃とし、恵子の手帳にあった2月28日の<外人>はMではないと主張。
弁護側はコンドームを使って捨てた日を恵子の手帳にあった2月28日頃と主張した。
精子は射精した時から時間の経過とともにその形が崩れていくことが分かっていることから、それが何日経過したものかをT大学医学部講師が鑑定した。
精液入りコンドームは事件から10日後の3月19日に発見されている。このコンドーム内の精子が約10日前のものなら検察側が、約20日前のものなら弁護側の主張が正しいということになる。

死体発見現場のコンドーム内の精子の形状は頭部のみしかなかった。
鑑定用に採取した精子は10日間、放置したものは頭部と尾部が分離したものが約40%であったが、20日間放置したものは約80%が分離していた。
この結果からすると、死体発見現場にあったコンドーム内の精子は20日は放置されていたという結論になる。
しかし、講師は「自分の実験は清潔な環境でやったからこうなったが、現場のトイレは不潔だろうから、実験で20日かかった分離崩壊が現場のトイレでは10日で起きても不思議はない」という趣旨の意見を述べた。

現場から採取された陰毛は全部で16本あった。
うち12本はDNA鑑定の結果、恵子とMのものだった。残り4本のうち3本の陰毛は最後まで誰のものか判明しなかった。

― Mのアリバイ ―
Mの勤務先のインド料理店のタイムカードの記録によれば、恵子が殺害があったとされた8日、Mは午後10時少し過ぎに退店しており、
それから電車を乗り継いで渋谷へ行き、さらに徒歩で粕谷ビル近くに着き、
午後11時25分ごろに2人でいるところを男に目撃された、とされているが、これが可能かどうかがひとつの争点となった。

海浜幕張駅発東京行きの京葉線は午後10時台は7分発、22分発、37分発、52分発の4本。
インド料理店と海浜幕張駅は急いで歩いても5分はかかる。Mは午後10時22分発の電車に乗ったと証言した。

渋谷署の警察官が実際に歩いて調べたところでは、7分発の電車に乗り、最短距離を歩いてなんとかギリギリ犯行現場に間に合い、22分発では間に合わないという結果を出した。
検察側はMが7分発の電車に乗ったと主張し、弁護側は7分発の電車に乗り込むのは無理があり、22分発の電車に乗ったと主張した。

― 無罪判決 ―
1999年(平成11年)12月17日、東京地裁での求刑公判で、検察側は無期懲役を求刑。
4月14日、東京地裁は、Mに対し無罪を言い渡した。
裁判長は「被告以外の者が犯行時、アパートにいた可能性が払拭できない上、被告を犯人とすると、矛盾したり、合理的に説明できない事実も存在する」。
精子の鑑定結果については、「(T大学医学部講師の実験の)数字等を根拠にする限りは本件精液は10日間以上放置されていた可能性の方が、20日間放置されていた可能性より高いとなどと断定することができない」と述べた。
Mは1997年(平成9年)5月に、入管難民法違反で有罪判決を受け、確定していることから、入管当局に収容され、その後、国外退去の手続きに入った。

― 控訴審 ―
4月18日、東京地検は控訴
4月19日、東京地裁は勾留しないことを決定。東京高検は一転して東京高裁へ勾留の要請。
4月20日、東京高裁第5特別部は検察側の要請を退け、勾留の職権発動をしない決定を出した。
5月8日、東京高裁第4刑事部判事は「犯罪を疑う相当な理由がある」と判断して勾留を決定した。
5月15日、弁護側は東京高裁第4刑事部が「犯罪の疑いがある」として職権で勾留したことを不服として東京高裁に異議を申し立てた。
6月19日、東京高裁第5刑事部弁護側の勾留決定を取り消すよう求めていた申し立てを棄却。
6月23日、弁護側は東京高裁がM被告を職権で勾留したことを不服として、最高裁に特別抗告した。
6月27日、最高裁は弁護側の特別抗告を棄却する決定を出した。
7月31日、弁護側は東京高裁にMの勾留の取り消しを再度、請求。
8月7日、東京高裁は弁護側の勾留取り消し請求を棄却。弁護側は異議申立て。 8月10日、東京高裁は弁護側の異議申し立てを棄却した。
8月14日、弁護側は最高裁に特別抗告した。
8月18日、私選弁護人5人が辞任。
8月23日、控訴審の弁護人の私選国選問題で2人を国選、3人を私選にすることが決まる。
8月24日、東京高裁で控訴審初公判。
12月22日、東京高裁で判決公判が開かれた。「原判決を破棄する。被告人を無期懲役に処する」
裁判長が主文を読み上げ、ネパール語に翻訳され始めたとき、Mは日本語で突然、
「神様、やっていない」「神様、助けてください」と裁判長に向かって叫び、
傍聴席を振り向いてもう一度、「やってない」と叫んだ。
同日、弁護側は上告した。

2001年(平成13年)2月下旬、上告審において弁護側は事件と同じ時期の2月下旬に、N大学医学部法医学教室の教授に鑑定を依頼した。
それは、本物の便器内の汚水による精子の崩壊を観察するというものであったが、
その結果はやはり、10日間の放置では頭部のみになっている精子は約40%で、20日間の放置では80~90%となり、
「不潔な水だと崩壊が早い」というT大学医学部講師の意見が正しくないということを証明するものであった。

2003年(平成15年)10月1日、弁護側が補充鑑定意見書を最高裁に提出。
10月20日、最高裁3小法廷は無期懲役とした2審判決を支持して被告の上告を棄却する決定を出した。
10月23日、弁護団は最高裁決定に対し異議を申し立てた。
11月4日、最高裁第3小法廷の藤田裁判長は被告人の上告棄却決定に対する異議申し立てを退ける決定をした。これで、無期懲役とした2審・東京高裁判決が確定した。弁護側は冤罪を主張し、再審を求める方針を明らかにした。

― 再審開始 ―
2005年(平成17年)3月24日、Mが東京高裁に再審を請求した。

2011年(平成23年)7月21日、東京高検が被害者、恵子の体から採取された体液のDNA型鑑定を行った結果、殺害現場に残されたMとは別人の体毛と一致したことがこの日、分かった。
また、東京高検が警察庁のDNA型データベースに照会した結果、一致する人物がいなかったことも分かった。

2012年(平成24年)6月7日、東京高裁はMの再審請求を認め、刑の執行を停止する決定も出した。最大の焦点だった再審請求審での新たなDNA型鑑定結果について小川正持裁判長は「公判で証拠提出されていれば有罪認定できなかったと思われ、無罪を言い渡すべき明らかな新証拠」と評価。「受刑者以外の男が被害女性と性的関係を持った後に殺害した疑いを生じさせている」と指摘し、確定判決を強く疑問視した。

6月11日、入管当局がMに対し強制退去命令を出し、まもなくMはネパールに向けて妻(当時42歳)と長女(当時20歳)、次女(18歳)とともに出国。

Mは犯人に仕立てられたのか?真犯人の高笑いが聞こえる。

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