―無理矢理の自慰―
大阪の付属高校に通っていた2人の少年A、Bは、柔道部を6月下旬に退部した。その直後からA、Bへのいじめが始まった。
AとBは休み時間や昼休みに教師の目の届かない所でしばしば殴られていた。AとBはいじめ被害を数人の教師に相談したが、教師からは取り合ってもらえなかった。
授業中・昼休み時間中・放課後には人前で強制的に自慰を強要された。いじめグループはAとBがいやがると殴打し、
「5回まわれ」
「アソコを持ってやれ」
などと言い、嫌々自慰をする2人を見ては笑っていた。
自慰行為はエスカレートし、若い女性教諭のいる前で無理矢理に陰茎を露出させられるまでになった。無理矢理に煙草や酒を飲まされ、教室を移動するときの荷物持ち、授業中のノートはほとんど2人に取らせるようになる。
10月26日にいじめが発覚すると、いじめグループは担任と柔道部顧問を襲撃する計画を立てている。いじめは9~10月頃に集中し、性格は大人しく目立たず補導された事もなかったAとBは追い詰められ、いじめグループのリーダー殺害の計画を立てる。
―殺すしかない―
11月1日、午前8時半頃、創立記念日で高校が休みの日にAとBは駅で落ち合い、相談して殺害方法や時間を決めた。
いじめグループのリーダーは「近くで自転車を盗んでこい」と指示し、2人は自転車を盗んで天満橋に行った。
午後7時40分ころ、公園の遊歩道で少年らの1人がポケットに隠していた金槌で、自転車に乗っていた被害者の頭を後ろから殴打する。2人は倒れた被害者を約10分の間、金槌で頭部を滅多打ちにし、金槌の釘抜きの部分で左目を潰し約50メートル引きずり川に投げ込み水死させた。
1984年11月2日、公園の川で半裸のブリーフと靴下姿のリーダーが水死体になって発見される。
1984年11月11日、警察は、少年A、Bを逮捕した。彼らは「解決するには自分たちで殺すしかなかった。」と犯行の動機を自供した。事件後2人は自主退学、中等少年院送致処分を受ける。
―責任の所在―
問題となったいじめについて警察庁は、少年の補導及び保護の概況として「理由もなく殴られたり、自転車を盗むよう強制されるなど、2か月にわたって手下のような扱い方をされ、いじめられた。」とだけ述べた。担任は何も知らないと事実を否定した。
校長は「A、Bら2人が、自分たちの都合がいいように発言したとしか思えません。」と述べる。
結局、校長ら6人の教師を懲戒処分としたものの、担任には処分はなかった。理事会原案では、担任に1番重い処分を課そうとしていたが、教職員の反対で処分は下されなかった。
12月5日付けで学校が関係者に配布した「同級生殺害事件に関する報告書」と題した24ページの内部資料では、いじめの詳細が鮮明に描かれている。