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恐怖の殺人の真実

ポーリンとジュリエット

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ポーリンとジュリエット

ニュージーランドで最も有名な事件のひとつといえば、必ずこの事件が挙げられるだろう。

1954年6月22日午後、ニュージーランドのクライストチャーチ郊外にて、血にまみれた二人の少女が泣き叫びながらリッチー夫人の食堂に駆け込んで来た。
「ママが大怪我をしたの!」
夫人は二人から事情を聞くと、すぐに警察に通報した。現場にはポーリンの母親が倒れており、すでに息絶えていた。血のついた煉瓦で、頭部を45ケ所も殴られている。殺人事件であるのは明らかだった。

犯人はどうみても二人の少女だった。その理由は「ママは転んで怪我をした」の一点張りであったからだ。頭の傷についても、「二人で運ぼうとした時に地面にぶつけた」と述べ、その発言からしても、彼女たちが犯人なのは明白であった。

そして、ようやくポーリンが自供したのだった。
「ママを殴ったのは私です」

― 空想の世界に住んだふたり ―
二人の少女、ポーリン・パーカー(15歳)とジュリエット・ヒューム(16歳)はともに創作を志す親友同士で、やがて共同で物語を作るようになる。それは「ポロヴィニア王国」という架空の国を舞台にした壮大なファンタジーで、ポーリンは「傭兵ランスロット」を、ジュリエットは「王女デボラ」の役になりきっていた。話の中で王女は傭兵に恋をするが、実世界でも二人は性的な関係を持つまでになっていたという。

このことを知った二人の両親は恐慌をきたし、特に名門大学の学長として世間体を気にするジュリエットの父は二人を引き離すため、ジュリエットを南アフリカへ移住させるという強硬な手段を取ろうとしたのだ。ポーリンの母がこの計画の急先鋒だと勝手に思い込んだふたりは、それを防ぐために殺害を思いつく。

ポーリンの日記は以下のとおりだ。
 6月19日
「今日、私たちは本をほとんど書き上げた。メインは『母殺し』で遂行するつもりだ」
 6月20日
「デボラ(ジュリエットのこと)と二人で細かい計画を練った。なぜか良心の呵責を感じない。私たちは頭がおかしいのか?」
 6月21日 犯行の前日の日記
「なんだかだれかを驚かすパーティーでも計画してるみたい!とても興奮する。次にこの日記を開くとき、ママは死んでいる。変な気分だけど、願いが叶ってうれしい」
 6月22日
「今日は、母が死ぬ日の朝で、とても興奮している。昨日はクリスマス・イブみたいな気分だった。楽しい夢は見てないけど」

弁護人は二人が「感応性精神病」であることを主張したが判事は正常と判断、無期懲役の判決がでたが、二度と二人で会わないことを条件に5年後に仮釈放された。

― 驚くべきその後 ―
ジュリエットは女子少年院で外国語を習ったり小説を執筆したりして過ごした。ポーリンは資格取得や職業訓練に積極的に取り組み、仮釈放後はニュージーランドの書店に勤めていたが、現在はスコットランドの離島でひっそりと余生を送っている。
ジュリエットはイギリスに帰り、複数の仕事を経て人気作家になった。

1994年、同郷の異才ピーター・ジャクソンが映画『乙女の祈り』を製作し、話題を集めた。一番の話題は、映画化がきっかけで人気ミステリー作家アン・ペリーがジュリエットであることが発覚したことだろう。彼女はあるインタビューで、「隠すことが何もなくなってしまったので、これからはありのままの自分で生きていけます」と語っている。

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