以下の日本人名は仮名とする。
― 南海の要衝 ―
小笠原諸島は東京都から南に約1000キロの位置にある離島で、父島を中心に大小の島からなる。当時、国防の要であった硫黄島と日本本土の中間にあり、軍需物資を中継する重要な島だった。
このため大本営(大日本帝国陸軍)は、従来の父島要塞司令部を改編し、混成第一旅団(5個大隊を基幹)など約9000人、海軍は通信隊など6000人を再配備していた。しかし敗色は濃厚となり、米軍空母からアベンジャー爆撃機が次々に父島に向かって出撃していた。
一方、父島守備隊は高射砲や機関砲で応戦し、5機の米軍機を撃ち落としている。
この内の1機に、後の第41代米国大統領となるジョージ・ブッシュ中尉も搭乗していた。飛行不能になった爆撃機からブッシュは、からくもパラシュートで脱出し、味方の潜水艦に救助されたが、同乗していた2人の乗組み員は行方不明となった。
― 酒の肴は人肉 ―
1945年3月、小笠原諸島の父島に配備されていた陸海軍の混成団の師団長が自決する。
その後、副官の立場にあった田中が総指揮権を握り、中将混成第一旅団との森野中将が指揮する父島方面特別根拠地隊は、連日の空襲を受け苦戦を強いられていた。
田中中将の副官的存在として間島少佐がいた。間島は気が荒く酒乱の傾向があり、柔道、剣道など合わせて10段以上の腕前と大きな体躯は、周りを恐れさせ、気に入らないことがあれば部下に半殺しの暴行を加えていた。
1945年2月23日~25日、この期に及んでも陸軍と海軍の高級将校達の酒盛りは連日行われ、終戦末期の物不足の中、貴重品である酒を連日酌み交わしていた。だが酒の肴が無い。
田中らは小笠原諸島を爆撃に来て日本軍に撃墜され、パラシュートで脱出した米軍パイロット捕虜のウォーレン・ボーン中尉を解体し、その肉を食べて戦意高揚を図ろうという狂気の行いを軍医に命じた。
針金で大木に縛りつけた米軍捕虜に向かって、田中が
「日本刀の凄みを披露する絶好の機会じゃ」
と言い放ち、試し切りの希望者を募って殺害する。遺体を解体させて宴会の肴にしてしまった。
田中は米兵の手足の肉や内臓を食べると、
「これは美味い。お代わりだ。」
とはしゃいでいた。
― 罪の償い ―
1945年9月2日、終戦から2週間ほど過ぎたころ、父島に米艦が到着し、田中陸軍中将を正使とし、森野海軍中将を副使として降状手続きが行なわれた。
この時、米軍側は開口一番、
「パラシュートで脱出した米軍パイロットは何名いたか。その後、どうなっているか知りたい」
との質問をした。
それに対し日本軍側は
「防空壕で全員爆死した」
と回答する。
これに対して、米軍側は露骨に不機嫌な態度になった。
その後、日本兵の復員は進んだが、間島陸軍少佐の大隊だけは復員が許可されなかった。この時、米軍側は間島大隊以外の部隊から様々な情報を収集していた。
1946年2月、証拠固めができたと判断した米軍は
「捕虜になった米軍パイロット達は、残虐行為の末に殺害され食人された。この事件の主犯は、陸軍では田中中将と間島少佐、海軍では森野中将と横田大佐である。」
としてグアムの軍事裁判に起訴した。
田中ら4人は大筋を認めて、この事件に関与したとする軍人ら25人が逮捕された。
東京裁判BC級の公判で、小笠原諸島の父島に配備されていた陸海軍の混成団の一部将校らが、米軍の捕虜を殺害して食人していたことが明らかになった。
8人の米軍捕虜を殺害し食人したこの行為で、田中、間島、横田ら5人が絞首刑となる。田中と間島は処刑されるまでの間、米兵たちの憎悪の対象となり、激しく虐待され続けた。森野は終身刑だったが、後のオランダ軍の裁判で死刑。
横田は軍事裁判で
「無差別爆撃する米空軍が悪い。パイロットは処刑されて当然。人肉は戦意高揚のため食した。」
と供述している。更に
「日本軍の戦陣訓である生きて陵辱の辱めを受けず(以下略)という教えがあり、捕虜に対する行為は何をおいても許される。」
と主張した。
― 米大統領の思い ―
昭和天皇の崩御で「大喪の礼」に参列した後、ジョージ・ブッシュは
「初めて日本人を許す気になった。」
と語ったという。
また彼の自伝の中で、ブッシュはこの事件を
「戦時中に経験した最悪の時」
と告白している。もしあの時、ブッシュが米潜水艦に救助されていなかったら、米国大統領になっていなかった可能性もあった。
一方で、当時、少尉候補生として父島に配属されていた田中氏は、中尉を殺したのは事実だが、ボーンの遺体を損壊して食べた事実は無いと食人行為については否定している。