―不当な処遇が脱獄の始まり―
1933年4月、土蔵荒らしの常習犯であったS(当時25歳)は、泥棒仲間と雑貨商に忍び込んだが、発見されて逃走する。家人に追いかけられて組み伏せられ、もみ合ううちに牛刀で家人を刺してしまい、殺人を犯してしまう。
1935年、青森で潜伏していたが、共犯が先に逮捕されたことを知りSは観念して自首した。拷問に近い取り調べを受け、留置場の独房に4ヶ月間据え置かれ、Sは鬱屈していった。
1936年6月18日未明、容易には脱獄などできない独居房から脱獄する。
県警にとって、Sを収容していた房は、死刑を求刑された未決囚が入れられる独居房であり、しかも昼夜厳重な監視下におかれていて、とても脱獄したとは信じがたかった。
Sは収容されていた房の鉄格子扉の錠前を、合鍵を作って開けたらしく、しかも廊下の鍵まで開いていたのである。
看守の交替時間は午前1時で、次の看守が勤務を引き継ぐ。房の巡視がSの房の前を通過し、引き返して来るまでの間はおよそ10分で、5時30分に看守が房内を覗いたところ、寝ているはずのSはすでに脱獄し、布団の中には人型にバケツや枕などが押しこんであるだけだった。
Sは3日間ほど山中に潜伏していたが、病人を装って下山したところを逮捕された。
脱獄についての取り調べが行なわれ、驚くべき周到な手段で合鍵を作っていたことが判明する。
まず彼は、加工用具の代用として手桶にはめられていた金属製のタガを入浴時にひそかにはずし、房内に持ち帰っている。さらに、汚物を捨てるため房外に出たときに、錠前の位置と食器を出し入れする小窓の位置を目測で計り、入浴でふやけた掌を小窓から出して、鍵穴に押し付け、鍵穴の型をとっていた。
また看守の巡回時間を覚え、15分の空白があることを確かめ、足音を数えて時間を測り、確認のために何十日も使ってタイミングを図る。鍵をあけたのは房、舎房、裏門の3つだが、すべて1本の針金製の「合鍵」で開けてしまった。
このSにとっての初脱獄はあざやかな手順であった。
青森刑務所では彼の再脱獄を防ぐため、頑丈な革手錠をかけ、看守を増員して監視にあたる。
しかしある晩、看守が独居房を覗いてみると革手錠をかけていたはずのSが、両手を左右にひろげ、大の字になって寝ているではないか。
看守は驚き、事務所に戻って非常ボタンを押して所内の看守全員が駆けつけたが、独居房のSは、既に手錠をはめた姿で横になっていた。
この出来事に狼狽した所長は監視を倍にし、次の日から足錠もするようになる。
1936年11月5日、Sの無期懲役が確定し、彼は宮城刑務所へ移送された。だが太平洋戦争の開戦により囚人たちは秋田刑務所へ「疎開」することになり、Sに対する看守たちの処遇は一変する。
―より特別な独房―
秋田刑務所でSを待っていた処遇は、独居房の中でもろくに陽のささない鎮静房と呼ばれる房で、高い天井に薄暗い電球がひとつきり、灯り窓は天窓だけ、三方は銅板で張られ、扉には食器を出し入れする小窓すらなかった。
Sはこの房で手錠をはめられたまま冬を過ごさなければならなくなった。コンクリの床の上には薄いムシロが一枚ひいてあるだけで、東北の厳しい寒気にとても耐えられるものではない。
「S、顔が見えるように布団から顔を出せ!」
「これは子供のころからの癖なんで、なおりませんよ。そんなに厳しくしないで、夜くらい寝かせてください。」
「規則を守らんなら、罰則を与えるぞ」
Sは薄笑いを浮かべ、「わたしゃいつでも逃げられるんですよ。そんな厳しいことを言うと、あんたが当直のときに逃げちまいますよ。」
Sなら逃げるかもしれない。
ただし、自分の当直以外の日であってほしい――彼らはそんな気持ちをいだくようになっていた。
1942年6月15日未明、当直の看守が悲壮な声で「鎮静房のSが、逃走しました。」と看守長に連絡する。
「逃走した?」
半信半疑で彼を監禁していた房に駆けつけた看守長は、現場を見て愕然とする。
頑丈な錠が外された房の中に入ると空の布団に雨が降っている。天井の方を見て立ちすくんだ。天窓がはずされ、そこから雨が落ちているのだ。
天窓までの高さは3,2メートル。そこまで登ることなどできるはずもない。
調べてみると、天窓の四角い木枠には厚いガラスがはめこまれ金網に覆われていたが、枠が腐りかけていたことに看守は気づいていなかったのだ。房の点検は一日一度必ずあったが、天窓は高すぎたため、検査をまぬがれていたのである。
しかしこのなめらかな壁をどうやって登っていったのか?
唯一足場になるものといえば布団だが、それは床に敷かれたままで使われた形跡はない。
―律儀な脱獄犯―
Sが脱獄してから、三ヶ月が経過した。
1942年9月18日深夜、東京の小菅刑務所看守長宅の戸を叩く者があった。
「Sです。Sです。」
「主任さんに会いにきました。」
Sは、小菅刑務所看守長を唯一自分の話を聞いてくれる信頼できる人物だと思っていた。
主任は妻に戸を開けさせ、彼を中に入れた。妻に茶を持ってこさせると、Sは両手に差しいだくようにして、有り難そうに茶を飲んだ。
「主任さんはよくしてくれたから、話を聞いてくれると思った。」
彼は、脱獄の動機を「刑務所内の処遇改善を司法省に直訴したかったが、自分が言っても無理だと思った。」と語った。
「あそこでもう一冬越すのは、考えただけで耐えられなかった。」
「刑務所がいやになったわけではないです。でもあそこのことはなんとか訴えたいと思い、主任さんならちゃんと聞いてくれると、それだけを信じて脱獄しました。」
その日の明け方、Sは付き添われて小菅警察署に自首した。
Sは警察に留置後、東京地検に告発され東京拘置所に収容される。尋問は重点的に脱獄方法と逃走経路についてであった。
彼の体力が常人をはるかに超えたものであったことは、既に調べられていたが、加えて特異な体質を持っていた。
関節腔と靭帯の可動域が異様に広く、首さえ入れば、肩、手足、腰など、ほとんど全身すべての関節を自由に脱臼して抜けることができるのだった。また、蜘蛛男のように手足の裏の皮膚を吸盤のように収縮させて貼りつく術を会得していた。
この脱獄で彼は「逃走罪」で懲役3年を受け、無期刑にプラスして有期刑も背負うことになった。
―極寒の独房―
5度目の移送先は極寒の地、網走刑務所である。その厳寒の中、Sは夏物の囚人用の着物で独房に放り込まれた。しかも手錠、足錠をかけられたままの拘禁である。
ある朝、看守が巡回中に彼の房を覗くと、いつも通り顔を伏せ気味にして正座していたSの前に外した手錠がキチンと並べられていた。刑務官は青ざめて上司に報告する。
罰としてSの食事は半分に減らされた。既に食事はほかの囚人の半分量に近かったので、それをさらに半減ということは4分の1である。
別の日、あまりに過酷な状況を看守に訴えると、反射的に怒鳴りつけられたため、無言の抵抗として、看守の目の前で手錠の鎖を引きちぎったこともあった。Sはふたたび減食(今度は7日間だった)が課せられ、運動も禁じられた。
さらに20キロほどもある分厚い鋼製の手錠と足錠を後ろ手にかけられた。手錠と足錠はさらに太い鎖でつながれ、寝転がることしかできなくなった。
「貴様ら覚えてろ。逃げてやる、絶対逃げてやるからな。そのときになって後悔するな」
その日からSはアルマイトの食器をくわえて、犬のように顔をつっこんで食うしかなかった。
Sにとって網走の脱獄を考えることは唯一の希望であり、生死を賭した大勝負でもあった。
1944年8月26日午後9時過ぎ、見回りの看守が、天窓が破壊された音を聞きつけ、獄舎の最先端の上部にある天窓にさっと人影が見え、またたく間に窓の外へと消えた。
1922年に網走刑務所と改名されて以来、はじめて獄舎内で非常ベルの音が鳴った。
S用の特別房の視察窓は枠ごと無くなり、房内の布団はたたまれ、彼の姿はなかった。その横には二人がかりで締め付けたはずのナットがはずされた特製手錠が並べて置かれていた。破壊された天窓の外は獄舎の屋根であり、そこから飛び降りたと思われる。
捜索は連日つづけられたがSの情報はなく、彼の消息は絶え、9月下旬になっても、Sの行方は知れなかった。
所内では、Sがいかにして手錠と視察窓をはずしたかを検証することになる。
手錠も視察窓の枠も鉄製の部品を味噌汁に含まれた塩分でナットを腐食させ、緩ませて引き抜いたという結論に至った。手錠、足錠、腰の鎖もいつでもはずせるよう、ゆるく締めつけた状態で決行日を探っていたのだろう。
本来ならば決行の予定日は8月25日であったが、たまたまその日はSにも優しく声をかける看守が夜勤巡回の日であった。仕方なくSは決行を一日延ばし、26日に脱走した。
脱獄したSは山中で過ごした。1946年5月、国民学校で盗んだ新聞によって日本の敗戦を知った。
1946年8月14日、終戦の翌年にSの行方が知れた。
砂川町の民家の野菜畑に間違って踏み入ってしまった彼を野荒らしと思った住人が、一方的に木刀で袋叩きにしたため、その場を逃げようと短刀をふるった。不幸にもその刃が下背部に刺さり、畑の持ち主が出血多量で死亡する。
脱獄の常習犯となっていたSは逮捕され、裁判の結果、一審は死刑という判決を下す。
「被告はどの監獄に入れても脱獄してしまう。矯正不能で死刑以外の刑罰はない」というのがその理由であった。
―偽装脱獄―
正月が明けてすぐ、Sは刑務所に移送されることとなった。
Sは一日一度の検身と、居房捜検を受けた。Sはとくに反抗する様子もなく、毎日「異常なし」の報告が看守長のもとに届いた。
しばらくは静かな日が続いたが、天井や小窓に視線を走らせる挙動がときおり見られるという報告が入ってから、状況は動き始める。
翌日Sに特別に外で30分ほど運動する場へ出る許可を出し、彼を房外に出して看守たちはただちに彼の房へ入り、天井を棒でつつき、板の継ぎ目、鉄格子のゆるみを徹底的に調べた。
その後もSが上方にちらりと目線を走らせる動きは続き、看守たちは彼が入浴のたび、房の天井、小窓を入念に調べられた。
1947年4月1日午前5時、第二舎にある特別房の前に看守たちが集まっていた。
Sがまたしても脱獄したのである。
脱出した場所は採光窓か天井に違いないと皆は警戒していたが、実際は床下に工作をすすめていた。
彼が上方に視線を走らせていたのは下に看守たちの関心を向けないためであり、看守長はSの計略にまんまと嵌まったのであった。
床板の切り口を調べた刑事が、塵を混ぜて練った飯粒が付着していることに気づく。Sは便器の鉄タガの接合部分を手で引きちぎってはずし、古釘を使ってタガに鋸状の歯を作って使用したものらしかった。
板を切ったときに出る木屑と飯粒を練り合わせ、切り口にすりこんでおいたため、肉眼ではほかの床板の継ぎ目ほどにも目につかなかったのである。
今回もやはり、Sは包囲網には捕らわれず彼の足取りは消えた。
1948年1月19日、脱獄から295日後にSは、札幌にほど近い琴似町で、職務質問される。
巡査はあやしい男だと思い、荷物を調べているときに「旦那、煙草1本くれませんか」とその男が言った。
当時の煙草はまだまだ貴重品である。しかし巡査は手持ちのタバコを男に1本分け与えた。
男はうまそうにしばらくそれを吸っていたが、やがてぼそりと呟いた。
「旦那、実は私は昨年札幌刑務所から逃げたSという男です。」
巡査は膝がガクガクするのを押し殺しながらSを派出所へ連行した。Sはおとなしく付いてきた。
ほどなく刑事が駆けつけた。Sは「お手数かけてすみません」と刑事たちと巡査に頭を下げ、札幌警察署へ護送される。
1948年5月24日、札幌高裁で砂川町の殺人を傷害致死とし、加重逃走罪と併合で懲役20年の判決が下る。
野荒しと間違えられたときに犯した殺人は、正当防衛こそ認められなかったものの殺意なしとされ、傷害致死となった。これと逃走罪と合わせての20年である。
このときSは40歳になっていた。
―脱獄の終わり―
1958年7月30日、GHQ札幌地方軍政本部の命令で、府中刑務所に移送される。死刑判決が下らなかったことで、Sの心境には変化が起きていた。
Sは網走で使用されたのとほぼ同じ特製手錠と足錠をかけられ、7人の看守に囲まれての移送となった。
所長室に通されたSと面接した所長は、Sが評判ほど悪い男ではないと感じた。彼は看守のひとりを呼ぶと「Sの手錠と足錠を外してやりなさい。」と命じる。
Sは入浴を許され、体を洗い流した。房は特別房だったが一輪挿しがあり花が活けてあった。
所長の措置で花壇の花づくりの仕事を与えられたことで、Sの態度は確定する。もともと彼は自分の畑を持つことを夢としていた男である。手先も器用だったし、花づくりは性に合った。
所長は「なぜ逃げんのかね?なにか辛いことはあるかい?」と尋ねたことがあった。
「もう疲れましたよ」Sは苦笑して、そう言った。
Sは模範囚となり級を上げ、1958年には1級を取得した。
1961年12月21日、Sは仮出所した。
出所後、Sは更生保護施設に2年いた後、東京都の台東区のドヤ街に住み、建築現場で働いて暮しを立てた。1973年の夏には、故郷の青森にも行っている。
囚人となったため離婚し、家族と別離していたが、家族を思う気持ちは残っていた。結局会うことはなかったが、長女が洗濯物を干すのを遠くから眺めて帰っている。
1979年2月24日、Sは心筋梗塞で死亡した。
享年71歳だった。
彼の遺骨は富士山を望む墓所に埋葬された。
―脱獄王の美学―
26年の獄中生活、4回の脱獄、合計3年余の逃避行という凄まじい記録は、資料として歴然と残っている。しかもただの一回も看守に怪我を負わせるような「強行突破」はしていない。
まさに「脱獄美学」というものをSは持っていた。
彼を評して、一世を風靡した男と当時の看守も脱帽している。