―快楽の修道女―
舞台は17世紀初頭、貴族のジャン・パウロ・オシオは、修道院にいる尼僧たちを手篭めにして性的関係を結び、背徳の情事を楽しんでいた。
そのお楽しみは次第に過激になり、シスター・ヴィルジーニャをはじめとする5人の尼僧が快楽に身を委ね、さらには神父まで巻きこんで、毎晩7人で入れかわりたちかわり、乱交にふけった。
修道女が妊娠したとなれば、世間の風当たりが強くなるため、シスター・ヴィルジーニャは町の薬剤師に避妊薬を処方してもらっていた。
1602年、その効果も虚しく彼女は妊娠し、結果的には男児を死産した。オシオはその処分を引き受け、修道院を毎晩訪れては、張って痛む胸から彼女の母乳を吸ってやった。
1604年、シスター・ヴィルジーニャはまたも妊娠し、女児を出産した。
乱交は続いたが、シスター・ヴィルジーニャの悪行を司教にすべて打ち明けると若い尼僧が言いだした。
決意は固く説得に応じなかったため、オシオが止む無く彼女を殴り殺し、死体を屋敷に運んで従者に始末させた。この惨劇の現場には目撃者がいたが、それをネタに脅迫をするようになったため、この男も消されてしまう。
一方避妊薬を処方していた薬剤師が、「ある貴族と尼さんのために薬を出してやっている」ことを回りに吹聴しはじめたため、オシオはその薬剤師を矢で射殺しようと試みたが、矢の当たり所が急所を外れて運良く生き残った。
この一連の事件によってオシオは捜査当局に目を付けられ、同時に修道院での乱交の疑いが噂となって流れ始める。
―明るみに出た背徳―
枢機卿にシスター・ヴィルジーニャは審問を受けたが、「自分は14歳で無理やり修道院に送り込まれ、信仰を強制されました」と述べ、神聖冒涜罪にはあたらないこと主張した。
当時の枢機卿は、強制された信仰の誓いに対し寛大だったため、「2度とオシオには会わないよう」という誓いを立てさせた上で罷免した。
貴族であるオシオも、監獄へと送られたが待遇はさほどひどいものではなく、監視もゆるやかだった。薬剤師への復讐を誓った彼は監獄を脱走し、公衆の面前で噂を広めた男を刺し殺している。
その後、頼る当てのない彼は、修道院に逃げ込み、シスター・ヴィルジーニャにかくまってもらう。
しかし捜索の手は彼女の部屋にまで及び、シスター・ヴィルジーニャは、すぐに取りおさえられた。隣室で尼僧服を着てちぢこまっていたオシオは、どさくさに乗じて逃走する。
1607年、5人の尼僧と1人の神父はミラノ大司教のもとにおいて裁判にかけられる。この審問中、罪に耐えられなかった尼僧のうちひとりは自殺した。
下った判決は厳しく、神父は奴隷船送りになり、尼僧たちは、「独房に閉じ込められ、戸口は漆喰で封じる。死ぬまでそこに幽閉され、生きている間は二度と陽の目を見られないようにする。食事だけは壁のちいさな穴から補給することを許す」という過酷な終身刑が言い渡された。
オシオは1年後捕らえられ、斬首された。彼の生首は棒に突き刺され、目抜き通りでさらし首にされた。
―神から与えられた道―
それから14年が過ぎ、人々の記憶から衝撃的な事件の記憶は消え去っていた。しかし、共犯者が全員死んでしまったにも関わらず、シスター・ヴィルジーニャは生きていた。
戸口は漆喰で封じられていたため、衣服は一度も着替えたことがなく、中の様子はうかがい知ることも出来ず、食事が無くなっていたということで死んではいない事実はかろうじて判っていた。清潔や衛生面に対する配慮などまったくされていなかった。
1622年、枢機卿は彼女に慈悲をほどこすことを決定した。
独房をあけた途端、すさまじい悪臭が放たれ、看守たちの多くが嘔吐した。排泄物と汗と分泌物、雑菌が繁殖した部屋の中はおそろしく不潔だった。
暗闇の中からズルズルと這い出してきたのは46歳になったシスター・ヴィルジーニャだったが、骨と皮になるまで痩せ細り、すっかり白髪となって、髪はばっさり抜け落ち、100歳の老婆のように皺だらけの顔には歯は一本もなかった。
驚くべきことに、死の際にいると考えられていたシスター・ヴィルジーニャは、75歳まで生き続け「道を踏みはずさないよう、性的な誘惑に悩まされる若い尼僧たちへの警告書」という伝書を書いている。