―さらし首―
1726年3月2日、ロンドンのウエストミンスターにあるセント・マーガレット教会前に棒に突き刺された男の生首がさらされた。その日の未明にホースフェリー埠頭近くのテムズ川の河川敷で発見された生首である。
日本ではさらし首といえば、罪を犯した人間を見せしめのために行なわれる公開方法であるが、この時代は、被害者の身元を知るために首そのものを棒に突き刺すという、被害者にしてみれば哀れな方法がまかり通っていた。
さらされた生首は次第に腐敗し、異臭と共に形が崩れ始めたため、腐敗の進行を防止するためにジンに浸して、心当たりがある者にだけ見せることになった。
身元を明らかにするためには、似顔絵でも良かったのだろうが、悲惨な屍体を掲示することで犯罪抑止の効果を狙ったのかもしれない。
やがてジョセフ・アシュビーという男が生首の閲覧に訪れ、3週間ほど前から行方不明になっていた親友のジョンであることを確認した。
妻のキャサリン・ヘイズは、夫は旅行に出掛けたと釈明していた。しかし夫婦を知る者の間では
「キャサリンが殺したのではないか」
と噂になっていた。
3月23日、キャサリンは名前のわからない生首の確認のために、出頭させられる。主人の変わり果てた姿と対面したキャサリンは、妙にわざとらしい演技で死んだ夫の首を抱きしめ、半分腐りかかった肉の塊にキスをすることで、自分が無実であるというアピールをしているように捜査官には見えた。
―相性のない結婚―
キャサリンとジョン・ヘイズが結婚したのは1705年のことだった。キャサリンはまだ15歳、ジョンは21歳であった。
若い妻は都会暮らしに憧れ、夫を説得してロンドンに移り住む。ロンドンで石炭商、質屋、高利貸しと手広く商売したジョンは成功した。
たっぷり金を儲けたジョンだが、病的なケチだった。「金がかかるから」の一言で、キャサリンが産んだ子供をふたりも殺してしまう。それ対するキャサリンは、暮らしが豊かになると本性の派手好きが首を出し、贅沢を好むようになる。
このころから夫婦仲は険悪になり、
「成功したのだから金を使わせろ!」という妻と、
「おまえなどに使わせる金はない。」と言う夫の間で喧嘩は絶えなかった。
1725年、セックスにあまり興味のなかったジョンに対して、欲求不満の妻は「古い友人だ。」と夫に紹介して、ビリングスという仕立て屋を家に泊まらせた。ジョンが仕事でロンドンを離れると、キャサリンとビリングスは夫婦のベッドで情事を愉しみ、ジョンの貯金を湯水のように使った。帰宅したジョンは激怒して妻を叩きのめしたが、ビリングスを追い出すようなことはしなかった。
さらに、キャサリンはウッドという友人も同居人とする。ジョンが彼らの存在をどう思っていたのかは不明だが、わずらわしいセックスをやらずに済むという考えがあったのではないだろうか。
キャサリンは
「夫が死ねば、1500ポンドの遺産が手に入るわ。あんたら、それを手に入れてみたくない?」
と2人の情夫をそそのかした。
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―酒飲み競争―
1725年3月1日、ウッドとビリングス、そしてジョンとで酒の飲み比べをした。挑発にのったジョンは1パイント瓶ワインを何本も飲み干して酔いつぶれてしまった。
ビリングスは酔いつぶれたジョンの後頭部にオノを振り下ろす。頭蓋骨が砕け、ジョンの体はぶるぶると戦慄く。更にウッドが2回殴りつける。ジョンは絶命した。
その間、隣人が「うるさい」と苦情を言いに来たが、キャサリンは丁寧にそれを詫び、うまく追い返す。
あらかた気力を失ってぐったりと座り込んでいる男ふたりを尻目にキャサリンは、夫の死体を始末する手はずを進める。彼女は死体の首の下に血受けのバケツをあてがい、大型の肉切り包丁で2人に首を切り落とさせる。キャサリンは生首の身元がわからぬようにするため、肉が離れるまで、鍋で首を煮ようと提案するが、この残虐な行為をできるほど男たちは剛気ではなかった。
3人はジョンの死体を斧でばらばらに切断し、池に投げ捨てた。
さらにキャサリンは男2人に生首を抱えさせ、テムズ川に向かわせて遺棄したが、あいにく引き潮だったため、哀れな主人の首は水没しなかった。そしてキャサリンは何食わぬ顔で夫の稼業をつぎ、貸し金の回収に精を出す。
―物言う生首―
目撃者がいた。
その生首が、失踪したジョン・ヘイズに似ていると証言する者が多く現れたため、判事は重い腰を上げ、キャサリンの事情聴取をするために彼女の自宅を訪問することにする。
なんとキャサリンとビリングスがセックスの真っ最中であった。
キャサリンはなんとか取り繕ったが、裸足でベッドに腰をおろしていたビリングスの姿は、どう見ても性行為の途中であったことは明らかだった。
結局、キャサリンほどの強靭な精神力を持たぬ2人の情夫は、観念して自供する。
1726年11月3日にタイバーンで、2人の男は絞首刑、キャサリンは火あぶりの刑を執行される。大逆罪や小逆罪を犯した女性は、共和国時代の一時的な中断を除いて、18世紀の末に至るまで一貫して火刑に処せられるのが常であった。
当時の焚刑の習慣として、火が足元にせまる前に女は絞殺される予定であった。
女の処刑は、その日のフィナーレを飾るメイン・イベントにされるのが普通で、荷車で刑場に運ばれた女は、愛人との共謀による夫殺しなどの場合には共犯者の男の絞首をみせつけられながら、自分の順番を待つ。
女にはよく燃えるようにタールを染み込ませた服やボンネットを身につけさせるばかりでなく、手足にもたっぷりタールが塗られる。
火あぶり用の柱は、絞首台の近くにうずたかく積み上げられた薪の中央に立てられ、教誨師による祈祷が終わると、火あぶり柱に鉄鎖で縛りつけられ、足元の薪に火が点けられる。
―失敗する火炙り―
キャサリンの最期は凄惨であった。
罪人の首にかけられた縄を処刑人が火の勢いを見計らって締め、それで絞殺されるはずだったのだが、予定以上に首を絞める処刑人の手元に火が迫るのが早かったため、慌てて掴んでいた縄を離してしまった。
キャサリンは、意識がある状態で火あぶりの刑になってしまった。
処刑人は、せめて彼女の意識を早く失わせようと薪がどんどんくべるが、キャサリンは意識を失うことなく絶叫しつづけた。彼女の死体が完全に灰になってしまうまで、たっぷり3時間を要したという。