―小作人の娘―
サフォーク州ポルステッドにマリア・マーテンというモグラ捕りの娘がいた。父親が違う腹違いの子供を2人も持つ女だった。
3人目の子供の父親となるウィリアム・コーダーはマリアの1歳年下で、父から受け継いだ農場を持っていた。
マリアの3番目の子は生まれはしたが、不可解な死を遂げる。ウィリアムは、赤ん坊の遺体を箱に詰めて、理由もなく隣町に埋葬すると言って持ち出した。しかし、隣町に遺体が持ち込まれることはなく、おそらく途中の野に埋めたか川に投げ捨てたと考えられている。
この頃を境にマリアはウィリアムに結婚を迫るようになり、マリアのしつこさに彼はうんざりしていた。
1827年5月18日、ウィリアムは、
「僕たちは私生児を産んだから逮捕されるかも知れない。だから内緒で結婚式を挙げよう。うちに赤い屋根の納屋があるのは知ってるね?あそこに馬を用意しておくから、男装してこっそりと来ておくれ。その馬に乗って隣町のイプスウィッチで式を挙げよう。いいかい。誰にも話しちゃ駄目だよ。」
とマリアを説き伏せて、ウィリアム家が穀物貯蔵のために借りていた赤い屋根の納屋に誘い出す。
騙されたマリアは、両親には打ち明けて「赤い納屋」へと向った。そして、二度と姿を現すことはなかった。
2日後、マリアの両親はウィリアムだけがひょっこりと帰って来たので詰め寄った。
「娘はどうしたんだ?」
「いや、結婚の許可がなかなか降りないので、彼女はイプスウィッチで待機してるんですよ」
その後、話は一転し、今度はロンドンで結婚式を挙げるという。3週間後にはこんな便りがマリアの親元に届く。
「私たちは無事に結婚して今はワイト島の新居で暮らしています。」
それを最後に音信不通となる。
―夢のお告げ―
マリアの母親が不審に思い始めた矢先に、夢の中にマリアが出てきた。娘が殺されて「赤い納屋」の床下に埋められている夢である。これは正夢に違いないと感じた母親は再三に渡って捜索を警察に依頼するが、その根拠が夢であるためなかなか動かなかった。
1828年4月、ようやく重い腰を上げた警察は、夢の通りに納屋から遺体を発見した。ウィリアムは、ロンドンで別の女と結婚していた。
1828年8月7日、8日、裁判は2日間開かれた。夢のお告げによって、殺人犯ウィリアムは逮捕された。
この裁判は大変な呼び物になり、7月半ばからベリー村のホテルと木賃宿は満員になり、証人の数を増やして裁判を延長させようとしたほどだった。
ウィリアムは、証言台でマリアは自殺だったと弁明したが、陪審員は聞く耳を持たず、有罪が宣告された。陪審員は、証拠調べが終ってわずか30分で判決を下した。
8月11日、公開で絞首刑に処され、2万人の観客が執行を見に来た。彼を絞首刑にするのに使われたロープは、コレクターに売却された。
―死後の利用法―
希望者があまりにも多く、ロープは1インチの長さにまで短くしないと希望者全員に行きわたらないほどの人気だった。
ウィリアムの遺体は王立外科医大学で解剖に使われ、彼の頭がい骨は、最近まで解剖学のクラスで使用されていた。2004年に彼の子孫の要求で最終的に火葬に付された。
被害者の母親が見た正夢によって解決した事件として知られるこの事件は、芝居として上演されて英国中で人気を博した。
ウィリアムは、実際はマリアより1歳年下だったが、舞台化された物語では、彼は若い無垢な女性を誘惑する老人になっていた。英国人なら誰もが知っている古典的な殺人事件となって、今日まで伝えられている。
殺人の現場となった赤い屋根の納屋は、観光の名所となり、好奇心の強い人向けのガイド付きツアーも組織されている。タブロイド新聞は、この物語を出版して100万部以上を売った。ポルステッドのマーテン家の田舎の住居は、観光産業の一部となり、B&B(ベッド&ブレックファースト、朝食付き宿泊)として利用されている。