1968年5月、イングランド北部の都市、ニューカッスルでの出来事である。
スラム街にある空き家で、子供の死体が発見された。被害者はマーティン・ブラウンという4歳の男の子で、遺体の周辺には錠剤が散らばっていた。
警察は当初、薬の誤飲が死因ではないかと考えた。検死の結果、脳に僅かな出血がある以外は問題がなく、考えられる唯一の死因は窒息だが、首には圧痕がなく絞殺の線も否定された。
マーティンはその日、午後3時15分頃に駄菓子屋で飴を買い、叔母の家にあがってパンを食べた。外に出たのは3時20分頃である。そして、3時30分には遺体となって見つかった。この間に死んでしまったということになる。
謎はまったく解けず、警察は頭を抱えた。医師はひきつけの発作のせいだろうと判断し、マーティンは自然死として片付けられることになる――。
― 異常な少女の行動 ―
当時、この周辺を遊びまわる子供達の中に、メアリー・ベルとノーマ・ベルという少女がいた。姓は同じだが親類ではない。メアリーはノーマより2歳年下だったが、傍目にもノーマはメアリーに従属しているように見えたという。
マーティンが謎の死を遂げた翌日は、メアリーの11歳の誕生日だった。メアリーはノーマの妹を「お誕生日カードをくれなかった」となじり、首を絞めようとした。悲鳴を聞いて駆けつけたノーマの父親が、メアリーの手を払い除けた。以来、ノーマの妹はメアリーと遊ばなくなった。
その夜、近所の保育園に何者かが押し入り、器物を壊して立ち去った。床には4枚の紙片が落ちており、
「わたしたちが ころした。マーティン・ブラウンを。くそったれ。」などと書かれていた。
その4日後、メアリーは悲しみに沈むブラウン家を訪れ、「マーティンに会わせて」と言った。母親は、「ありがとう。でもマーティンはもういないのよ。」と答えた。そしてメアリーは、少女とは思えない恐ろしい発言をした。
「知ってるわ。お棺に入ってるマーティンが見たいのよ。」とニヤニヤ笑ったのだ。
― 2人目の殺人 ―
2ヶ月後、再び殺人事件が起こる。同地区の、ブライアン・ハウという3歳の男の子が行方不明になり、捜索中、メアリーは示唆するようにおかしなことを言った。
「ブライアンは、あそこのコンクリートブロックの間で遊んでいるかも知れないわ」
そしてその言葉通り、ブライアンの死体はまさにコンクリートブロックの間で見つかった。首に小さな掻き傷があり、鼻には打撲の痕、脚と腹と陰嚢には切り傷がついていた。近くには壊れたハサミが落ちていた。一方の刃は折れ、もう一方は折れ曲がっていた。死因は窒息で、首に指の痕がなく舌骨が折れていないことから、ごく弱い力でじわじわ絞められたのだろうと思われる。
死因は「子供による絞殺」と断定された。警察はマーティン・ブラウンの件を思い出した。彼もまた子供に絞め殺されたのでは?力が弱いために圧痕が残らずわからなかったのだ。
警察はスコッツウッドの約1000軒の家庭を訪ね、3歳から15歳までの子供たち約1200人に質問用紙を配付した。子供たちの答えの中で矛盾が特に多かった者がメアリーとノーマだった。
メアリーはほかの男児に罪をきせようと、「あの子がブライアンと一緒に歩いていて、ブライアンを叩いてた。それにハサミを持ってたみたい」と言った。しかし死体の傍にハサミがあったことは公表されておらず、メアリーは墓穴をみずから掘るかたちで逮捕された。
逮捕されたメアリーは11歳の子供とは思えないほど冷静であり、苛烈だった。
「あんたたちはあたしを洗脳しようとしてる。弁護士を呼んでここから出してもらいます。」
しかしノーマがメアリーの犯行を証言したため、容疑はほぼ確定した。メアリーは今度はノーマに罪を押しつけようとしたが、誰もこれを信じはしなかった。
メアリーを見た精神科医はこの少女を「利口、戦略的、危険」と評した。しかし留置所でメアリーを担当した係官は、彼女の違った面を目にしている。
メアリーは「おねしょをしたらいけない」と夜通しトイレに行き、ほぼ一睡もしなかったという。夜尿を心底恐れ、怯えていたのだ。
― 恐るべき少女の生い立ち ―
メアリー・フローラ・ベルは1957年5月26日、17歳のシングルマザーのもとに生まれた。父親は不明で、母は生まれたわが子を初めて見た瞬間に、「それを片付けてちょうだい」と叫んだという。
メアリーは母からの愛情を感じることなく育ち、1歳のときには母親に精神安定剤を飲まされて病院へ運ばれたこともある。数年後にも、メアリーは窓から転落しかけたり、鉄剤を「誤って」飲み、入院騒ぎになったことがある。これらはきっと偶然ではないのであろう。しかし誰もメアリーを助けてはくれなかった。
母親はしばしば子供を置いて失踪し、メアリーは義父とともにあちこちの住居を居候として転々とした。メアリーは風呂にも入れず、頭にはシラミがわいていた。母親は若さを失うにつれ精神病に悩まされて自殺を繰り返し、鬱状態に陥ってはメアリーにあたった。
やがて金のため母親はSM専門の売春婦となったが、彼女はメアリーをベッドに押さえつけ、客に幼い娘の口を使って射精させた。メアリーがどうしても歯を食いしばって拒んだときは、喉を絞めて口を開けさせたという。この性的虐待は4歳から8歳まで続いた。
メアリーは夜尿癖、抑鬱、悪夢、家出等の兆候を見せはじめた。友達はひとりもなく、メアリーは弟に「金を払って、遊んでもらっていた」という。その金は、行きずりの男に体をさわらせ、口止め料としてせしめたものだった。
メアリーが9歳になったとき、初めての友達ができる。それが、隣に引っ越してきたノーマだった。
なおこの2人はマーティン殺しの半月前にも、3歳の子供を突き飛ばして頭から出血させている他に、6歳の女児ふたりの首を絞めている。
逮捕後、メアリーは女性警官に、「ママはあたしを嫌ってる」と言った。警官が「そんなことないわ、あなたを愛してるわよ」と答えると、メアリーは弱々しく首を振って、「じゃあどうして、ママはあたしを置いて出ていくの」と呟いた。
メアリーが拘置所で夜尿と不眠と夜驚症にさいなまれている間にも裁判はすすみ、予想通りメアリーは有罪、ノーマは無罪になった。
― 出所後、メアリーはどうなったのか ―
それから12年間、メアリーは少年院と一般刑務所で過ごすこととなる。1977年には刑務所を仲間と脱走したが、3日で捕まって連れ戻されている。
メアリーの母は殺人を犯した娘の面会に訪れて、メアリーの下着姿の写真を撮った。そしてそれをタブロイド紙に売りつけた。
メアリーは23歳で出所し、政府は彼女に対して報道規制をかけたが、母親がすべてをばらして金儲けをしていたため、メアリーが平穏な生活を送れたことはなかった。1995年に母親がアルコール依存症で死亡したときは、メアリーもほっとしたことだろう。
メアリーは1984年に女児を出産し、40歳のとき、事件の一部始終を告白した本を出版した。
メアリーは自分の過去について一人娘には一切隠していたが、この出版を機に、すべてを娘に話した。娘は母の過去を受け入れ許したが、マスコミはそうはいかず、本で多額の報酬を受け取っていることからも、社会から激しい非難を浴びた。