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恐怖の殺人の真実

大西克己身代わり殺人事件

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大西克己身代わり殺人事件

1955年6月2日、山口県下関市。 「腐った臭いがする」という近所の人の通報で、警察が山口県下関市の市営住宅の大西福松さん(60歳)方を訪問。 福松さんと妻クマさん(56歳)が死んでいるのが発見された。

室内には、「私は父母と相談の上、親子3人心中をいたしました。私は事情があって1日遅れて後を追います。みんな元気で暮らしてください」 という奇妙な遺書が残されていた。

福松さん方では、この夫婦の他に長男・克己(当時27歳)とその妻の4人が住んでいた。 当時、克己の妻は出産のために国立病院に入院していた。遺書を書いたのは克己とされる。
近所の人によると、前日の夕方に克己が「両親を連れて岡山に行く」と挨拶回りをしていたが、その夜に付近で1人で歩いている克己を見たのでおかしいという証言があった。

死体解剖の結果、福松さんとクマさんの青酸中毒死とわかった。 その後、克己は勤務先の酒類販売会社の売上金150万円を奪って逃走したものと判明したが、行方は不明。 事件は迷宮入りするように思えた。

― 湖畔の惨殺遺体 ―
1958年1月13日午後3時半頃、茨城市水戸市南方の千波湖のほとりで、人間の左右の指2本、鼻、陰茎1個が入ったオイル缶が発見され、警察は殺人事件として捜査。
翌日にはオイル缶のあった反対側の湖畔の笹藪で仰向けの裸の惨殺死体が発見された。先のバラバラ部分はこの遺体のものと完全一致した。
全身には硫酸がかけられ、顔面と指先が特に焼けただれていた。さらに指紋は個人が特定できないように細かく切り込まれていた。
殺害後、どこかから運ばれてきたものと見られ、遺留品はオイル缶と30m離れた公衆便所内から発見された浪花屋旅館の染抜きの手拭だけだった。

司法解剖の結果、死因は絞殺。死亡推定時刻は12日午後5時から午後9時ごろの間であった。年齢については25歳以上、35歳未満と推定された。
特別捜査本部では指紋再現につとめ、その指紋からかつて自動車窃盗で東京の上野署に検挙された墨田区の日雇人夫・佐藤(30歳)と判明した。

佐藤さんの家族の証言によると、1月9日正午ごろに佐藤さんは西田という30歳くらいの男を連れ帰ってきた。
西田は岐阜の大湊で皮革屋をやっているとのことで、「佐藤君にセールスマンをやってもらうつもりだから、移動証明と戸籍謄本が必要だ」と言った。 西田は翌日にも現れ、その書類を受け取り佐藤さんを連れて行った。

また現場近くで発見された手拭に書かれた浅草の浪花屋旅館に聞き込みに行くと、宿帳には確かに佐藤さんの名前と、岐阜県穂積町の西田保(30歳)という名前があった。 人相なども一致しており、西田が佐藤さんを殺害したものと推定された。

― 総合特別手配 ―
同年7月9日、警察庁は全国に殺人・強盗事件21件、計26人を総合特別手配した。犯人の写真と犯行の概要を印刷した手配書をあらゆる掲示板に貼ったのである。これは初の試みだった。
この特別手配により、最初に捕まったのが下関市の養父母殺しで手配されていた自動車運転手・大西克己(当時30歳)であった。 手配から2日後の11日、福岡刑務所から移送された克己の原紙が発見された。

これによると、1947年1月に強盗で懲役7年の判決を受け、保釈中の2月にも窃盗の現行犯で懲役1年6ヶ月の判決を受け服役した。 そして1951年に仮出所した・・・というものであった。

だが指紋係で指紋番号により新しい原紙と対照してみたところ、こうあった。
「本籍は北海道函館市大縄町。住居:東京都目黒区宮ヶ丘。自動車運転手・三浦。昭和7年(1932年)9月15日生まれ。1957年12月、警視庁東調布署に窃盗未遂で検挙される」

指紋が一致しているのに、写真はまったくの別人であった。 調べてみると、三浦という男は実在しており、現住所で自動車運転手として妻(当時26歳)と暮らしているということだった。 ここで克己が三浦という人物になりすまして逮捕をまぬがれているという疑いが出てきたのである。

捜査員は内偵を開始、隣家に住む人に克己の顔写真を見せたところ、「間違いない」と出た。 勤務先の社長にも三浦のことを聞いてみたが、1956年に職安を通じて雇い入れ、真面目に働いていたという。

克己は手配から1週間がたった16日に逮捕された。 克己が三浦という人物を殺害していたことが推定されたが、遺体が発見されない限り彼の犯行と断定することはできない。 このため警察庁では全国の警察から家出人票と身元不明死体票を送らせ、対照を始めた。

このうち、岡山県倉敷署が扱った焼死体があやしいとされた。 この焼死体は、三浦さんの行方がわからなくなって5日目の1956年2月8日に発見された。上京した三浦さんの兄が、焼け残りのオーバーを弟のものと証言した。

これにより下関署で養父母殺しを否認していた克己も自供を開始。 その後、三浦さんとは別の男性1人も殺害していたことが発覚した。もう1人の男性とは水戸で発見された佐藤さんのことである。

― 大西克己という男 ―
克己は山口県下関市に生まれ、大西家の養子となった。養母クマの私生児であったという。 高等小学校卒業後は自動車運転手などをしたが、それからは悪の道を歩み、刑務所を転々とし、1953年に前科を隠して女性(28歳)と結婚した。

克己の供述によると、妻の妊娠以来、養父母は急に冷たくあたるようになり、「別れろ」と言うようになった。 克己も会社の金を使い込んでいたこともあり、養父母殺しを思いついた。

1955年6月1日、この時、克己の妻は出産のために国立病院に入院中していた。 折り合いの悪い養父母の福松さん、クマさんに酒や料理をふるまい、記念撮影までしてから、酔いつぶれた2人に青酸カリ入りジュースを飲ませて殺害。 会社の金130万円を持って逃げた。

この後、別府で飲み歩いた末、「藤田」という偽名を使って間借りし、マーケットに食料品店を出した。 売り上げは良かったが、ある日些細なことで殴り合いの喧嘩をして警察に連行されたことから、素性がバレると思い、今度は東京へ逃げた。

克己は指名手配されたことで、別人になる必要を感じ、戸籍を売ってくれる人を探していた。 1956年2月初め、向島の特飲街で「4万円なら売る」という男を見つけた。それが三浦さんであった。
三浦さんは1953年に友人4人とともに北海道から上京、自動車修理工場などに勤務した。いったん北海道へ戻ったものの、1956年に就職のため再度上京した。 この直後、家族は「名古屋の方に就職するので、至急戸籍謄本と移動証明、旅費5000円を送れ」という手紙を受け取っていた。宛先は東京都寺島1丁目だった。

克己は三浦さんを2月3日に連れ出し、数日後には「自分のために無縁仏になるのか」と哀れに思い、女を抱かせた。 伊東、大津にそれぞれ一泊し、岡山県倉敷市に向かった。 克己はガソリンスタンドでガソリンを買い、その夜に山中で胃薬と騙して青酸カリを飲ませ殺害、身元の確認ができないように遺体を焼いたのである。 この時から、克己は三浦という名で別の人生を歩くこととなった。

その数日後、台東区南稲荷町の紙器工場で働きはじめた克己は、ある女性と知り合い、この女性に費用を出してもらって自動車の運転免許を取った。 その年の7月には目黒区のアパートを借り、(三浦氏の)籍を北海道から移して、婚姻届を出した。 新しい妻はもちろん克己が本当は大西という名字で、下関で養父母を殺したとは知らなかった。やがて子ももうけた。

1957年の暮れ、克己は酔っ払って他人の家に侵入してしまい逮捕される。東調布署で写真や指紋をとられたため、身元がばれるのを恐れ、新たな身代わりを見つける必要があった。
1958年1月、克己は「ハハ、シス」というニセ電報を打った。これを口実に上司や妻の兄から計7万円を借り、北海道に向かったふりをした。

克己は浅草山谷で年恰好の似た佐藤さんを見つけ、1万5千円で移動証明の売買契約を結んだ。 その夜は浪花屋旅館に一泊し、佐藤さんが「水戸へ行きたい」というので、水戸で彼を殺害した。
克己は、佐藤さん殺しの後に三浦さん殺しを自白したが、その自白の前に警部に「ぼくはどの位の刑で済むのでしょうか」と尋ねたという。 結果は水戸地裁で死刑判決。

2審担当の弁護人は克己に一度も面会に来ないばかりか、控訴趣意書の書き方を教えてもらおうとしても、「その必要はない」と拒否し、「被告の行為は死刑を已むを得ない。控訴する理由は何もない」という趣意書を裁判所に提出した。

1960年6月13日、東京高裁、控訴棄却。1961年3月30日に死刑が確定した。

1965年、死刑執行。東京拘置所時代、被害者の冥福を祈る歌をよく作り、下関と東京にそれぞれ残してきた子どもを偲ぶ歌も多く詠んだが、母親の歌だけはなかったという。

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