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恐怖の殺人の真実

名張毒ぶどう酒事件

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名張毒ぶどう酒事件

昭和36年3月28日、三重県・名張市葛尾の村落で生活改善を目的としたサークル「三奈の会」の総会があり、公民館に男女32人が集まった。午後8時過ぎ、総会を終えて懇親会に移った。男達は清酒、女達はぶどう酒を各々注ぐと和やかに祝杯を挙げた。その直後、女達が苦しみだした。緊急連絡で駆けつけた医者の介抱もむなしく5人が死亡、12人が中毒症状を起こした。

現場に急行した警察は、早速捜査を開始する。まず、男達が飲んだ清酒では中毒症状が無いことから、女達が飲んだ「ぶどう酒」に原因があるとして調べる。その結果、ぶどう酒に「農薬(ニッカリンT)」が混入されていることが判明した。そこで、警察はぶどう酒の購入・搬入に誰が関与したのかを調べる。すると、3人の男性が重要参考人として捜査線上に浮かんできた。

取調べで3人は犯行を否認するが、その内の一人、奥西勝(当時35歳)は、死亡した5人の女性の中に妻と愛人がいたため「三角関係の清算」のための犯行ではないかと嫌疑をかけられた。

4月2日、警察の厳しい取り調べで(警察は、奥西の家に泊まり込みで取り調べを続けた)、奥西は「公民館でひとりきりになった時に自宅から持参した農薬(ニッカリンT)を、ぶどう酒の王冠を口で開けて混入した」と犯行を自供する。

その後の公判で奥西は、自供は厳しい取り調べで強要されたものであり、犯行はしていないと全面否認する。
昭和39年一審の津地裁で「無罪」になるが、昭和44年二審の名古屋高裁では「死刑」という正反対の判決がでた。昭和47年6月の最高裁で二審を支持。奥西の死刑が確定した。平成14年4月8日、第7次再審請求を名古屋高裁に申立て中である。

― 深まる謎 ―
奥西犯人説は矛盾点が多く謎に包まれている。その矛盾点とは・・・奥西が誰もいない公民館で、ぶどう酒に毒を入れたという点。

ぶどう酒の購入は「三奈の会」の会長で農協職員のAが、同じ農協職員のBに購入と運搬の依頼をした。Bは肥料を運ぶため農協に立ち寄った車に同乗し、酒屋でぶどう酒を購入。その後、A宅に届けた。受け取ったのはAの妻(死亡)と近所の友人である。その時間は事件直後の供述で午後4時と証言している。

A宅の隣家に住んでる奥西が5時頃、A宅を訪問。5時20分頃、ぶどう酒を公民館まで運んだ。この供述だと、A宅にぶどう酒が届いたのは4時頃で、奥西が取りに来る5時頃の間の1時間、A宅に置かれていたことになる(奥西以外の誰かがA宅で農薬を入れることができる)。

ところが、事件から2週間後の関係者の供述では、ぶどう酒は5時10分にA宅に届けられ、奥西が5時20分に公民館に運び入れたことになっている(近所の人と同道)。その後、誰もいない公民館で奥西が農薬を入れたとされた。
しかし、検察側が主張している犯行時間に、牛を散歩させている奥西をA宅のトイレの小窓から見ている者がいた。この証言が正しいとすれば、奥西がぶどう酒を公民館に運んだ後、誰も居ない間に毒を入れる事は不可能に近い。

この関係者の供述で、事件直後の供述を採用するか、事件2週間後の供述を採用するかによって、津地裁と名古屋高裁との判決に正反対の判決が出たと言える。 この他にも、捜査段階や逮捕後の証言、証拠において疑わしい状況が多々あり、奥西の支援団体と弁護士団が「無罪を訴える」活動を展開中である。奥西が無罪であったとしても狭い村落に必ず犯人はいるわけで、住民の複雑な気持ちは残る。

― 再審開始 ―
名古屋高裁は平成17年4月5日、再審開始を決定。同時に死刑執行停止の決定もした。
裁判長は弁護側が提出した新証拠(ぶどう酒の王冠は口では無く栓抜きで空けたとした分析結果など)を重視。有罪の状況証拠や物証に疑問を投げ掛け、「他の者による犯行可能性が否定できない。自白の信用性にも重大な疑問がある」と理由を述べた。
尚、これに対して名古屋高検は異議申し立てをした。

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