―人殺し女になる背景―
後に連続殺人犯として死刑判決を受けるT子は、どんな人生を送ってきたのだろうか?
1946年2月14日、T子は上新川郡月岡村(現在は富山市に編入)に生まれた。
前夫に先立たれた母親が妻ある男と肉体関係を結んだ末に生まれた子がT子である。彼女が認知されたのは13歳になったときで、それまでは庶子扱いであった。
認知される時期は遅かったものの、継父は聡明なT子を溺愛した。一方実の母親は兄2人にしか愛情を注がず、T子は無視されていた。
T子の性格は内向的で親しい友人もなかったが、成績はつねにトップクラスであったという。ただし虚言癖があり、癲癇様の発作を起こして口から泡を吹いて失神することもあった。
高校卒業後の進路は、大学へ進みたいという願いがあった。東京の私立大学に合格し、その希望の光は明るくなるはずだったが、学費の工面がつかず進学を断念させられた。
失意のT子は地元の保険会社に勤めるが長続きせず、上京して化粧品会社に就職した。23歳で結婚し、出産する。
―奈落への序曲―
1972年に卵巣嚢腫になり卵巣摘出手術を受ける。その闘病中に夫が浮気し、さらに彼が会社の金を使い込んでいたことが発覚したため、やむなく離婚。T子は失意のうちに故郷の富山へ帰る。
悪いことが立て続けに起こる。
腹壁ヘルニアを発病し、再手術を受ける。退院後、T子を可愛がってくれていた継父が死去。
茫然自失となった彼女は、老母と幼い子供をかかえ、生活保護を受けながら暮らす。再婚が目的で通っていた結婚相談所は、いつの間にか男を紹介してもらう売春目的の斡旋所と化していた。
―悪意の女―
1977年、T子が31歳の時に転機が訪れる。25歳の電気工Kと出会った。まだ新婚8ヶ月目であった。
馴染みの売春婦から紹介されたT子を一目見たKは、彼女の頭の良さとファッショナブルなセンスに惹きつけられた。
「父親が大地主の息子で、放蕩はしたけれど、かなりの資産を残してくれた。だからお金には困ったことがないわ」という嘘を真に受け、偽られた品格に全幅の信頼を寄せてしまった。
後に取り調べの中に調べられたT子の知能指数は138。並の男であれば彼女の手玉に取られてしまう。挫折し虚言癖があり、異常性格という犯罪者になる条件をすべて備えていたと言える。
1978年、T子とKは100万づつ出資して『北陸企画』を起業する。T子の口癖は「こんな小商いじゃしょうがないけど、頭を使えば大金が入るわ」だった。
1979年8月、T子は結婚相談所で紹介された男性に9000万円の保険金をかける。顔見知りの喫茶店経営の女性を言葉巧みに引きずりこみ、殺害計画を企てた。男に強精剤と偽ってクロロホルムを嗅がせ、眠らせてから溺死させる計画であったが、肝心の男が眠らず失敗に終わる。
その後も結婚相談所で紹介された男から金をだまし取ったり、Kの印鑑証明でサラ金から融資を受けるなどして生活していた。
一方「私のようなエレガントな女には、このくらいのグレードの車でなくては」と国産の高級スポーツカーを購入するなど虚勢を張っている。
―誘拐殺人の実行―
1980年2月23日、富山駅にいた女子高校生に、T子は「アルバイトの娘を探している」と声をかけ車に連れ込んだ。女子高生は家に「アルバイトに誘われた」と翌日自宅に電話している。
T子は彼女の家に身代金を要求する電話をかけたが、祖父が出て要領を得ないため「身代金を奪い取るなど無理かもしれない」と判断し、連絡をやめてしまった。金にならないというそれだけの理由で、彼女は絞め殺されてしまう。
既に一人殺してしまったT子は、新たなターゲットを探すべく、富山を離れることにした。
Kに「いい儲け話があるから」と持ちかけ『北陸企画』を廃業させる。2人で長野へと向かった。
3月5日、長野市内でバスを待つOLのY子さんに「このへんに店を出す予定なので、若い女の子の意見が聞きたい」と声をかけ、食事に誘い出す。
腎臓病で具合のよくなかったKをホテルに残し、T子は単独行動をする。
Y子さんに睡眠薬を飲ませ、車内で絞殺。すでに殺人を経験した女にとって人の命を奪うことにさほど躊躇はなかったのかもしれない。被害者の財布から金を抜き取り、死体を遺棄した後、平然とホテルに戻っている。
Kに「これで美味しいものでも食べなさい」と、奪いとった金から5千円を渡している。
翌6日夕方、Y子さんの自宅に女の声で「お嬢さんを預かっている。明日10時までに3000万円を姉に持たせて長野駅まで持ってくるように」という電話が入り、家族が家に10万円ほどしかないことを伝えると電話は切れた。
翌7日午後12時23分、再び女から電話があった。
今度は「2時までに2000万円用意して長野駅に来なさい」というもので、姉が長野駅に向かうと「4時38分発のあさま16号に乗って高崎駅で降りよ」と指示された。指定されたのは高崎駅前の喫茶店だったが、犯人は現れず、それ以来連絡は途絶えた。
3月27日、Yさんが行方不明のまま、警察は公開捜査に踏み切った。富山、長野の両県警は2つの女性失踪事件の手口が似ていることから、同一犯による犯行と断定した。
さらに2つの事件の犯行現場では、ともに眼鏡をかけた女と赤いスポーツカーが目撃されている。
そして3月30日、T子(当時34歳)と、その愛人のK(当時28歳)が逮捕された。T子とKは、Y子さんがいなくなった前後に長野市内のホテルに3泊していたことや、赤いスポーツカーに乗っていた女に酷似したことからマークされていた。
―殺人の果てに―
逮捕の決め手は、声紋の鑑定をした結果、T子の声と身代金要求電話の声が一致したことだった。
4月2日午後、長野県小県郡青木村の林道わきを通りかかった男性が女性の遺体を発見した。遺体はY子さんのもので、失踪当日のままの服装で頭を谷に向けて倒れていた。首には紐が巻きついたままだった。
警察は当初男性のKを主犯と考え、集中的に尋問した。T子は「年下の恋人(K)に捨てられたくない一心で、言いなりになった」と供述したため、Kは追いつめられ、自白調書に判を押した。
しかし公判開始後、自白は強制されたものだとしてKは容疑を否定した。のちにKは「彼女を女神のように崇拝していた時期もありました」供述している。
T子があえてKを相棒に選んだのは、自分の持ち駒として自由に動くロボットであったからだろう。
1980年3月6日、岐阜県の山林で若い女性の死体が発見された。翌日、この死体は、行方不明となっていた富山県の女子高校生であることが彼女の家族によって確認された。
T子の実像を象徴する証言として、富山地裁でKは「この清い、静粛な法廷に悪魔の心を持つ女がいる」と言い放った。
―悪行の裁き―
1986年にT子は再び病に倒れ、子宮筋腫で刑務所内で手術を受けた。
1988年2月、富山地裁はT子の単独犯行として死刑を言い渡し、Kについては無罪とした。
1993年2月、名古屋高裁は一審を支持。名古屋高検は上告を断念し、Kの無罪は確定した。
1998年9月4日、最高裁はT子の上告を棄却し、死刑が確定した。
2007年3月23日、富山地裁はT子の再審請求を棄却の決定。