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恐怖の殺人の真実

M物産マニラ支店長誘拐事件

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M物産マニラ支店長誘拐事件

―混沌のフィリピン―
1986年に行なわれたフィリピンの大統領選挙で、現職の大統領だったマルコスが優勢であるという発表がされた。

政府の不正な操作による投票結果だと国民は過激な集会を各地で開き、国内は騒乱状態となった。いつ内戦になってもおかしくない状態となったフィリピンは、無政府状態に近かった。

1986年は、独裁政権さながらのマルコス時代からアキノ政権に移つる激動期だった。

中央の混乱に乗じて、フィリピン全土の新人民軍(以後NPA)の攻勢が盛んになり、フィリピンに共産革命が起きるのではないかと囁かれた時代だった。ミンダナオ島など政府軍が手薄な地方では、NPAが主要道路で検問をするほど勢力を伸ばし、政府軍に対する攻撃は、日常茶飯事であった。

―邦人誘拐―
このような混乱の中、フィリピンで日本人が誘拐されるという事件が起こった。

当時、日本の大手商社のM物産マニラ支店長であったWが、マニラ郊外のゴルフ場からの帰りにフィリピン共産党の軍事組織であるNPAのメンバー5人に誘拐された。

事件発生は1986年11月15日午後3時ごろ、この誘拐事件が日本に伝えられると、日本ではマスコミが異例の緊急報道として伝え、センセーショナルなニュースとして日本中の話題となった。

さらにマスコミや関係者を震撼させたのは、翌年の1987年1月16日に、M物産本社や通信社各社に切断された右手中指と脅迫状や写真、テープが届いたためだった。切断されていた指と一緒に送られてきた写真では、誘拐された支店長が虐待を受けているように見え、テープには弱々しい声が吹き込まれていた。

マスコミによってこの写真が報道されると、Wの解放を求める世論が高まった。

事件の背後には、日本赤軍が絡んでいるのではないかという噂まで飛んだ。

ターゲットが商社の支店長であったということから、この誘拐が身代金目的であることは、ある程度推測できた。海外の大手商社の支店長ともなれば、大使並みの重要人物で、犯人側にとっては、いい金づると見られていたに違いない。

数回におよぶ脅迫状が関係者のもとに届き、人質開放の交渉役としてフィリピン政府やカトリック教会などが動いているとの報道が日本国内で流れた。NPAは、身代金として数千万ドルを要求したとの噂も流れたが、この点についてM物産本社は、口を閉ざしたままだった。

開放の交渉が成立したためなのか、1987年3月31日の夜、マニラ支店長のWは、ケソン市内の教会脇で発見され、保護された。自由の身になったWに怪我はなく、切断されて送られてきた右手中指や写真、テープは犯人の偽装であった。

身代金1,000万ドルを犯人側に払ったとの質問が報道各局の記者から投げかけられたが、会社側も誘拐されたW本人も否定している。

しかしNPAは中央本部の声明として、この事件に政治的な背景はなく、末端のメンバーが勝手に行った身代金目当ての単独誘拐事件で、人質と引き換えに1000万ドルの身代金が支払われたと公表している。

―日本赤軍の関与―
犯人達は、その後1991年に逮捕された。供述の中で「日本赤軍の協力があった。」と自供している。主にフィリピン国外で行われたとみられる身代金の受け取りに協力したと考えられているが、詳細はその時点では明らかにならなかった。

2002年1月27日付の記事の中で「M物産マニラ支店長誘拐事件の際に、犯人側に渡された身代金と日本赤軍のメンバーAが所持していた紙幣の番号が一致した」と報じられた。既に獄中であったAは、名誉毀損で民事訴訟に起こした。

2007年1月19日、東京地裁は証拠不十分としてY新聞社に105万円の賠償支払いを命じた。

しかし2007年6月28日、控訴審の東京高裁で一審判決を破棄し、新聞記事を真実と認め、Aの名誉毀損による請求を退けた。

―支店長のその後―
解放後、支店長のWは、会社によってチャーターされた日本航空のダグラスDC-8型機で日本に帰国した。その後は国内の支店長として勤務した。

なお身代金の受け渡し交渉で、アメリカの誘拐事件専門のコンサルティング会社が間に入っていたことを会社が公表してしまったため、同様の事件を誘発することになる危険性があるとして大きな非難を受けた。

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