1984年1月10日の朝、札幌のある一軒の家で電話が鳴った。
受話器をとったのは次男のAくん(9歳)だった。
Aくんは家人の誰に替わるでもなくそのまま電話越しに話しつづけた。
そして「ちょっと出かけてくる。渡辺くんのお母さんが僕のものを黙って借りたんだって。これから函館に行くみたいだから、僕、それを取りに行ってくるね」と早口で言った。 そのときリビングには家族全員がいたが、Aくんが何を言っているのか理解できず、唖然としていた。 渡辺といわれても市内にはどこにでもある姓である。そして、この家族の親しい間柄の中に渡辺姓はいなかった。
しかしその間に、Aくんはさっさと長靴をはき、家を飛び出して行ってしまった。 母親が6年生になる兄に「ちょっと一緒に行ってやって」と頼み、兄もあとから駆け出したが、途中で見失ってしまう。 そしてAくんは行方不明になった。
― 謎の電話、渡辺 ―
兄がAくんを見失ったのはちょうど渡辺という家の付近だったが、そのとき留守番をしていた渡辺家の娘は、Aくんについては何も知らなかった。
警察が聞き込みを始めると、Aくんが失踪した場所の近所のアパートに住むホステスが、 「今朝、家の前の道路で男の子に『ワタナベさんちはどこ』と訊かれた」 と証言した。
警察は大々的な捜査を開始し、近所の渡辺家の家宅捜査までしたが、何の手がかりも得られなかった。
Aくんは忽然と消え、2度と現れなかったのだ。
そしてこのとき唯一の目撃証言者となったホステスがKであった。
― 事件の真相 ―
Aくんが行方不明になってから4年後の冬。
札幌から70キロ離れた新十津川町にある全焼した農家の納屋から、Aくんのものとおぼしき人骨が発見された。
その家は前年の暮れに焼け落ち、世帯主の夫が死んだが、妻と娘は焼け出されて助かったものである。
そして火事から半年後、燃え残った納屋の中を整理していた夫の親戚が、ビニール袋に入れられ棚に置かれていた人骨を見つけたのだった。
警察はこれがAくんのものでは、と疑いを抱くや、Kのことを思い出した。最後に少年を見たと言ったホステスが、この焼け落ちた家から助かったという妻その人なのだ。
ただちに当時のKの背景が洗い出され、彼女に多額の借金があったこともわかった。これは誘拐ではないか――と警察は睨んだ。電話を使って巧みに子供をおびき出し、誘拐したが思いのほか警察の初動が早く、発覚をおそれてAくんを殺したのではないか。
だがKは任意聴取には応じたものの、それからは完全黙秘を貫いた。人骨の身元がいまひとつ曖昧であることもあって、検察はいったん起訴を断念する。
が、年月の経過につれDNA鑑定も進歩した。
それから10年後、鑑識は骨をAくんのものと断定し、時効2ヶ月前、Kを逮捕に踏み切る。が、このときも彼女は完黙を通しきった。
― Kという女 ―
Kは1955年、北海道の小さな漁村で生まれた。中学卒業後、集団就職で上京するが、会社勤めはすぐに辞め、19歳からスナックで働き出すようになる。
1982年、最初の結婚をし娘をもうけるが、翌年夏に離婚。Kは娘を連れ、札幌に戻る。Aくんの失踪はその半年後のことであった。
2度目の結婚は新十津川で、見合い結婚である。相手は35歳になる農家の男性Bであった。Bは、都会的で洗練された美貌を持つKに一目惚れしてしまい、 「畑仕事なんかしなくていい。ただ俺と一緒に住んでくれさえすりゃあいいです」 と拝み倒さんばかりにして口説き落とし、周囲の反対も聞かず入籍した。1986年のことである。
Kは結婚後も、ほんとうに畑仕事は一切しなかった。パチンコ屋に入りびたり、ときには娘を連れて札幌へふらりと遊びに出かけ、そのまま10日も戻らないこともざらだった。家事もほとんどせず、毎日昼過ぎまで寝て、Bとは寝室はおろか、冷蔵庫や洗濯機まで別々にしていたという。
Kは左手の小指の先がなく、太腿には刺青を消したあとがあった。
小指については、「昔ヤクザの情婦だったとき、別れる別れないでモメて、落とし前として小指を男の目の前で詰め、それを顔に投げつけてやった」のだという。
その話の真偽はともかく、気性の荒い女だったことは確かなようだ。少なくともおっとりした農家育ちのBに御せるような女ではなかった。
Bの親戚はKの素行に加え、Bの貯金が彼女に使い込まれて底を尽きかけていることを知り、「無理にでも離婚させなきゃなるまい」と陰で真剣に別れ話を進めるようになった。が、その矢先、B宅から火が出たのである。
前述した通り、この火災による死者はBだけで、Kと娘は助かっている。深夜の出火だというのに2人はきちんと身支度しており、持ち出した荷物もきれいに荷づくりされていた。また119番した形跡もなかった。 Bには2億円近い保険金がかけられていたが、Kはこれを請求することなく新十津川を去った。そして半年後、納屋からAくんの骨が発見されることになるのである。
― 解せない結末 ―
2001年、5月。札幌地裁は検察側の求刑・無期懲役に対し、Kに無罪判決を下した。
だがこれは「殺人の否定」ではなく「殺意の否定」に近いもので、要するに「殺意のない偶発的な殺人だとしたら、傷害致死罪」なのだが、事件からあまりに年月が経ちすぎているため、傷害致死罪はもう時効になっているのである。
そして本事件に関し、殺人の意図は確固たるものではなかった、との審判であった。
無罪判決を聞いてもKは無表情を崩さなかった。公判中も完全黙秘を貫き、262回にわたって「お答えすることはありません」とだけ繰りかえした彼女は、まさに鋼のようであったという。男の、それも筋金入りの思想犯でもこれほど完黙を通した例は稀少である。
重ねて2002年3月、検察の控訴を高裁が棄却。これによりKの無罪が確定した。
またB宅の放火嫌疑についても時効が成立。事件の真相は薮の中となり、Kもひっそりと一般市民の生活へと潜っていった。