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恐怖の殺人の真実

東京鞄屋社長令息誘拐殺人事件

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東京鞄屋社長令息誘拐殺人事件

―豪農の長男―
1928年4月3日に新潟県大島村で生まれたSは、豪農の長男として生を受けた。祖父が村長まで務めたことがある実家は村の名家で、広大な土地を所有する地主の長男として生まれた彼は、大切に育てられた。

無口でおとなしい性格だったが、成績は優秀で将来が有望視されていた。地元の小中学校に通ったのち、陸軍兵器学校に合格し、神奈川県へ引っ越すことになる。

戦死することもなく終戦後は新潟に戻ったものの、彼の実家は戦後の農地改革によって土地を取り上げられ大きな打撃を受けていた。そのような状況下でふたたび地元の学校に戻った後は、卒業後、逃げるように故郷を捨てて上京し、東京歯科大学予科に入学した。

彼の大学生活は1人でいることが多く、親しい友人はいなかった。謎めいた人物として周りの人間は見ていたようだ。付き合いがまったく悪いというわけでもなく、稀ではあるが仲間と連れ立って飲みに行くことや、スキーを一緒に楽しむこともあった。

―女好きの性癖―
この頃から女に対してだらしない傾向はあったようだ。ダンス教室の助教師を口説き、肉体関係を結ぶようになっている。もちろんこんなことを表立って自慢するようなことはしなかった。

よくある話で、女は妊娠し、Sはその責任を取らなければならなくなった。

実家の親族は大変な剣幕で、結婚など許さぬの一点張りだ。歯科大学の卒業を控え、いずれは良家の娘を貰い、歯科開業を目論んでいた父と祖父は、踊り子と結婚するなど許すはずもなかった。

だが揉めている間に子供は生まれてしまい、親族も結婚をしぶしぶ認めたが、婚姻届が出されたのは卒業から4年以上も経った年の暮れの1958年12月26日だった。

家庭内はしっくりしていなかったが、ひとまず大学を卒業した後の1954年4月からは、インターンとして台東区の歯科医院に勤めはじめる。5月には無事国家試験にも合格し、晴れて歯科医師となった。

雇われているという意識は希薄だったようで、2ヶ月後には勤務先に無断で、台東区の歯科医院に移る。翌年には、杉並区の歯科医院に院長待遇でどうかと話を持ちかけられると、務めていた医院をさっさとやめ、新しい勤務先に移った。

もともと器用だったようで、腕利きの歯医者という評判でその医院は繁盛した。この頃のSは絶頂期だった。医院に近いところへ一軒家を借り、翌年には次男も生まれ、彼の人生の帆は順風満帆の風を受けていた。

1956年11月、妻の実家から開業資金を借りたSは、あろうことか自分が勤務している歯科医院の目と鼻の先に自分の医院を開こうとした。今までの患者をごっそり引き抜く魂胆である。

もちろん以前の雇い主は激昂したが、Sは意に介せず平気な顔で開業した。

もともと腕に評判がある歯科医であったので、ごたごたがあったにも関わらず、1日60人以上の患者が列をなしてSの歯科医院に通っていたという。

―落ちていく先には―
ここまで何の問題もなく順調だったSは、有頂天になって気が緩んだのか、料亭の女中と浮気したうえ、女にアパートを借りてやる。自宅に帰らず、どっぷりと甘い肉体関係の罠へと落ちていった。

それを知った妻は実家へ戻り、Sは妻の両親にひどく叱責され厳しく非難されたことで、常軌を逸した末にガス自殺をはかったが死にきれなかった。

愛人に貢ぐばかりのSは、妻の実家から開業の際に借りた金の返済もせず、それに業を煮やした妻は離婚を求めたが、Sはそれを拒んだ。

このごたごたの最中に、愛人はSの子を産んでしまう。女で身を滅ぼすという奈落を転がり落ちるように、彼の人生は次第に狂ってくる。

愛人との生活で湯水のように金を使ったことで借金は雪だるま式に増え、一方妻からは離婚と慰謝料を請求され、徐々に身動きがとれなくなっていった。

歯科医になって以来、金に困るなど経験がなかったSは、実家を頼ったが、豪農だった頃とは一変して没落し、頼れるほどの金は残っていなかった。窮地に立たされた彼の脳裏には、最後のシナリオが浮かんだ。

―卑劣な犯罪―
春真っ盛りの1960年5月16日、目黒駅に立っているSの前にバスが一台止まった。中からは有名大学の付属小学校の制服を着た子供たちが、弾けるように降りてくる。

品のいい顔立ちの男の子に目をつけたSは、「きみを迎えに行ってくれと、おかあさんに頼まれたんだよ」と言いながらその子に近づき、自分の車へと導いた。誘拐である。

子供を車に連れ込んだSは、言葉巧みにその子から名前や家の様子を聞き出す。年齢は7歳、名前はM、父親は銀座で鞄屋を経営する社長の令息であった。

睡眠薬を飲ませて子供を眠らせたあと、Mちゃんの自宅に電話をかけた。

「200万円を指定の場所に持って来い。警察に知らせたら子供の命はない。」

しかし両親は警察へ連絡し、札束の大きさに切り揃えられた新聞紙入りのバッグが用意された。現場にSが現れることはなく、翌日、誘拐された両親のもとには「ゴゴ1ジ 300マンエンヲモッテ シンジュクデレンラクヲマテ」という電報が届いた。

しかし身代金の受け取りにSは失敗する。もう一度、場所を変えて連絡したが、これも失敗した。失望して自宅に帰ったSは、Mちゃんを殺すことを決意した。

閉めきった部屋で眠っていたMちゃんを確認すると、ガス栓を開き一酸化炭素中毒で殺害する。ぐったりしたMちゃんを米俵に強引に詰め込み、おもりを付けて川か海に沈めるつもりで車を出しが、緊急配備の警察が迫っていることを知ると、死体の入った米俵を車の後部座席に放置したまま逃げ出した。

たまたまSが留守の間に自宅にあがりこんだ近所の主婦が、「見たことのない子供が布団に寝かされている」と警察に通報したのである。

大阪まで逃げたSは偽名を名乗り、2ヶ月ほど日雇いの仕事をしていたが、警察の捜査によって発見、逮捕された。

裁判の際に妻は、語気を荒げ「こんな男は厳罰に処すべきです!」と証言したのに対し、愛人は言葉少なに「私の愛で彼を見守りたい」と証言したという。

一審の判決は死刑であった。この判決後からSは異常行動をするようになり、幻聴や幻覚に悩まされ、その症状は日増しに悪化し、自分の糞尿まで口にするようになった。

1966年8月に控訴は棄却され、1967年5月に死刑が確定した。

1971年、わずか7歳の男の子を窒息死させたSに刑が執行された。

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