1959年1月27日夕方、若い女性が次々と自転車に乗った少年に襲われた。
この日の被害者は8歳の小学生を含む10人。そのうち区立中学3年生(16歳)が死亡、他3人が重傷を負った。
―伏線―
1959年1月27日午後6時40分頃、都内の路地裏で、Oさん(当時17歳)が自転車に乗った少年に小刀で左胸を刺された。
約200mほど自転車に乗った少年を追いかけたが姿を見失った。少年は紺のジャンパー、茶色い乗馬ズボン、作業服という服装で、「炭屋の小僧」風だったという。
襲われた女性の中で亡くなった区立中学生(16歳)は、Oさんが被害にあってから約40分後に襲われている。
自宅近くの十字路で友人と別れた直後に自転車通り魔に襲われ、やはり小刀で左胸を刺された。彼女は自宅玄関にたどり着いて土間に倒れこんだ。
その後の調べでわかったことは、6日前の21日から近くで女性11名が襲われていたことが判明。
すれ違いざまにカミソリのようなもので肩を切られて軽傷を負ったり、後方から衣類を切られるといった被害で、重傷を負った人はいなかった。
当時はこのあたりで痴漢出没が日常茶飯事だったということもあって通報もされていなかった。
―被害者21人―
27日の犯行を含めて計21名が襲われたこの一連の事件の被害者は8歳の小学生から、27歳までの女性。時間帯は午後5時から同7時40分の間だった。
合同捜査本部が置かれ、厳重な警戒を敷いていたにもかかわらず、30日の早朝にも同様の事件が起こった。
この通り魔事件が起こって町では自警団が結成され、夜間の女性の一人歩きはなくなっていった。
そんな頃、被害者宛てに「あまり騒ぐな」といった手紙も届けられ、近隣の住民を恐怖に陥れた。
―犯人像―
犯行時間から、昼間は自由に行動できず働いている少年の犯行ではないかとされた。
しかし現場は工場地帯で外灯も乏しい暗闇での犯行のため、犯人の人相などはわからなかった。
印象としては「炭屋の小僧」「不良学生」「若い工員」などの証言があった。犯人の乗っていた自転車は古いものだったという。
犯行地域としては、約1.5km平方、区内で三角の形となる地域で起こっていたが、その中心部では起こっていなかった。犯人がそこに住む人物で、顔見知りのいるこの地域を避けたのではないかと想定された。
―Wという少年―
捜査を進めて行くうちに、三角形の薪炭商の三男W(当時17歳)の存在が浮かび上がってきた。
Wは1月27日の夜のアリバイについて「劇場に行って、終わってから池袋の叔父の家に遊びに行った。11時に帰りました」と話した。
無類の自転車好きで、黒っぽいジャンパーなど、目撃証言に近い服装で集金をしていた。
2月4日、突如Wは父親に付き添われて荒川署にやって来た。
来薯の理由は「捜査本部から4回も電話で呼び出しがあった」からだが、捜査本部では呼び出しをしていなかったので、誰かのいたずらだろうと親子を帰宅させた。
だがその数時間後、炭店の周りを報道陣が囲い、父親は「恐ろしくていられないから、息子を保護してくれ」と届け出た。
そしてWを警察へ連れてくると、誤解が生ずる恐れがあるため、署員寮に泊まらせた。
夜が明けると、寮の周りにも報道陣が集まり始めて行った。父子は「よく調べてほしい。このままでは帰れない」と訴え、幹部による会議の結果、「証拠づける資料がないため、容疑事実はなし」と捜査第一課長が談話を発表した。
―噂の独り歩き―
手詰な捜査を打開するために、捜査本部は次のような手配書を配布し、一般の協力を求めた。
・最近、急に服装をかえた者
・新聞を読みあさっている者
・この事件を非常に気にしている者
・その後の行動がそわそわしている者
・急に無口になったり、様子がかわった者
・事件後、姿が見えなくなった者
こうした手配書に対して、町の人達からの情報は多数寄せられた。
これらを元に少年らが洗われたが、いずれもシロであった。
ついには商店の人がただ配達をしているだけで、「犯人はあいつではないか」と噂されるほど町は疑心暗鬼に陥った。その後も捜査の進展はまったくなく、1974年に時効が成立した。