犯行があった夜、犬は鳴かなかった。
捜査陣は顔見知りの犯行を疑ったが、事件は有力情報も得られないまま1966年1月9日に時効を迎えた。
―火災発生―
1951年1月9日午前2時頃、関西地方のある村で、青果商Sさん(40歳)方で原因不明の火災が発生。
焼け跡からはSさん、その妻(33歳)、長男(10歳)、次男(8歳)、三男(4つ)の一家5人の遺体が見つかった。
四男(7ヶ月)は出火直後に救い出されていたが、頭部を殴られており、まもなく死亡した。
―失火?心中?放火?―
同家の中庭で6人の解剖が行われ、さらに大阪大学医学教室で内臓の化学検査が行われた。
「肺臓などに吸煙した形跡が認められないので一酸化炭素による中毒死でない。青酸カリ、リンなどの毒物および睡眠剤も検出されない。
仮死または死亡時に火災が発生したとみられる。どの死体にも左あるいは右の頸動脈の切断・頭がい骨骨折などの傷痕が認められ、特に四男の頭部の傷痕から推して、相当の重さのある鈍器で殴打されたものと想像される」
放火殺人事件として捜査本部が設置された。
捜査で分かってきたことは、次のようなものであった。
・炊事場にあった薪割り斧からは血痕や指紋が検出されなかった
・死体にはSさん宅に元々あったてんぷら油がかけられていた
・犯行の夜、飼い犬は鳴かなかった
・表入口でバールが発見された。
―非協力的な村人―
現場は200戸あまりの、のどかな農村である。
この農村の村人たちは余所者を警戒し、事件と関わり合いになるのを恐れ、堅く口を閉じてしまった。
村民たちが捜査に非協力的であったのには理由があった。
それは大正期に起こったこの村の村長の妻殺し事件。村民の大半が長時間拘束された結果、その年の農作物の収穫が半減したことなどのへの怒りが背景にあった。
―地検の推理―
「他殺放火は間違いない」「犯人は1人か2人の仕業」「手斧で次々と殴り殺したに違いない」「犯行時間は30分ぐらい」「犯人はこの土地にはじめての者とは考えられない」
しかし捜査は行き詰った。現場からの物証は発見されず、聞き込み捜査も難航した。
容疑者約80人、重要参考人として約500人の取り調べが行われたが、事件解決の糸口になるようなものはなかった。
ただし、被害者とも親しいある人物の存在が新聞記事によってスクープされ、捜査本部は色めき立ってその人物を呼んだが「知らぬ存ぜぬ」の一点張り。翌朝帰宅を許された。
捜査本部に否認を覆す傍証がなかったためである。
捜査本部は事件から1年後に解散となった。
―再捜査開始!―
1955年7月、警察制度改革によって警察本部が発足。
捜査一課はこの事件の捜査を再開することとなった。
この事件がどうしても解決しなければない重大事件のひとつに指定されたためである。
しかし3年間の捜査ブランクは致命的で、有力情報もないまま1966年1月9日に時効を迎えた。
時効を迎えるにあたって捜査第一課は談話を発表している。
「目撃者がなく、また聞き込み捜査から手掛かりが得られなかったのは今でも悔やまれる。
しかし手を下した犯人はおそらく一人だろう。
あの一家を皆殺しにしなければ自分は生きていけない、そう思いつめた者の計画的な犯行だと思っている」