1998年インターネット黎明期、「ドクター・キリコの診察室」という掲示板が存在した。 掲示板のオーナーはドクター・キリコと名乗り、ホームページに集う自殺希望者に毒薬である青酸カリを次々に送った。
これがネット犯罪史に名を残す「ドクター・キリコ事件」である。
1998年(平成10年)12月12日午後1時ころ、東京都杉並区在住の無職の女性A(24歳)に青酸カリの宅配便が届いた。 午後3時ころ、母親から宅配便を受け取った女性Aは間もなくブルブル震え出した。 母親に「6錠全部飲んだ」と答え、女性Aの意識は薄れていった。母親はすぐに119番に通報、女性Aは私立医大病院に運ばれた。
宅配便の差出人欄には「草壁竜次」とあり、住所は札幌市内であった。 連絡先にはPHSの番号、品名には「EC(Emergency Capsule/緊急カプセル)」と書かれていた。
警視庁高井戸署が送り主の捜査を始めたが、その住所に該当する人物は存在せず、PHSの登録も電話料金を引き落とすための銀行口座も仮名で、その銀行口座を開設するときに提出された身分証明書としての健康保険証は偽造されたものだった。 「草壁竜次」ももちろん仮名だった。
高井戸署の署員がPHSにかけたところ男が出た。 男は「青酸カリ入りのカプセル6錠を送った」「杉並の女性が死んだら自分も死ぬ」「あれは純度の高い青酸カリです。6錠飲むと死にます。ある女性に頼まれて送りました」「普通は(カプセル6錠で)5万円ですが、彼女は無職で金がないということだったので3万円にしました」と答えた。
12月15日午前2時過ぎ、女性Aは死亡した。体内から致死量の15倍の青酸化合物を検出した。 女性Aは精神的に不安定な状態で、1996年(平成8年)ころから入退院を繰り返していた。 薬を常用しており、最近も家族に「死にたい」と漏らしていた。 これまでに数回、薬物による自殺未遂を図っているという。遺書は見つかっていない。
― 被疑者死亡 ―
「草壁竜次」と名乗る男は青酸カリを買った女性Aが自殺したことを知って自宅の2階の自室で自殺した。 救急病院に運ばれて死亡したが、死亡は持病のぜんそくの発作による心臓停止と診断された。 女性Aと「草壁」の死亡時刻は奇しくも同じ頃だった。
「草壁」は札幌市に住む27歳の男性で、学習塾の非常勤講師だった。 千代田区内の私立大学の理工学部化学科を卒業し、札幌市内の医薬品開発研究会社や薬局に勤務していた。 薬剤師の資格はなかったが、勤務先では「毒劇物取扱主任の資格がある」などと話していたという。
12月25日、札幌の救急病院に保存されていた「草壁」の血液が検査され、女性Aが服毒した青酸カリと同じ成分と判明した。
同日、同じく「草壁」の口座に、6月2日、代金3万円を振り込んだ東京都足立区の主婦B(21歳)が、7月4日に自殺していたことが警視庁捜査1課の調べで分かった。
綾瀬署の調べでは、死因は「バルビタール」という睡眠薬による薬物中毒だった。この睡眠薬は主婦Bが通院していた医院の処方を受けて服用していた睡眠薬のようである。
主婦Bは1996年(平成8年)に結婚後、1997年(平成9年)に精神障害で通院し、投薬治療を受けていた。主婦Bの死因と「草壁」とは関係なかったことになる。
― ドクターキリコ ―
東京都練馬区の主婦C(美智子交合/当時29歳)は、「安楽死狂会」というホームページを開設していた。 その数週間後、コンテンツのひとつとして、「ドクター・キリコの診察室」という掲示板を設けた。 同年6月、主婦Cがインターネットの自殺系の掲示板を通じて、「草壁」と知り合っていたが、 その際に「草壁」が薬関係に詳しいので、「診察室」専属の「ドクター」になって欲しいと頼んで引き受けてもらうことになり、「草壁竜次」は「ドクター・キリコ」という名前で掲示板の専属「ドクター」になった。
ドクター・キリコとは手塚治虫の漫画「ブラックジャック」に登場する人物で、病人を安楽死させようとしていた。 このことからも「草壁」が自殺希望者に青酸カリを送り、自殺幇助をおこなっていたと考えられた。
― お守り ―
ホームページの開設者である主婦Cは他の掲示板で「草壁」が青酸カリを持っていたことを知り、譲り受けていた。 それは「草壁」が「販売」したのではなく「保管の委託」をしたのであり、その「保管」の期限は5年ということであった。 5年後には「草壁」に返すことになっていた。「草壁」は主婦Cに「保管」は「お守り」という意味で、「持っていることが安心感を生む」として飲まずに持っていてくれればいいと言っていた。
「草壁」は自殺の手助けをする目的で青酸カリを譲ってたのではなかった。 前述した主婦Bも結局、「草壁」から入手した青酸カリ以外で自殺をしていた。
ホームページの開設者である主婦Cは「保管」として譲り受けた青酸カリを飲むつもりでいたが、結局、飲むことが出来ず、「お守り」となった。 「草壁」は、譲り受けた誰もがそれを飲むことなく、逆に自殺の衝動から解放される手段となる筈だと確信していた。
同じ練馬区に住む女性D(当時21歳)が主婦Cとインターネットを通じて知り合っていたが、死にたがっていた。そこで、主婦Cは女性Dに「草壁」を紹介した。 その後、女性Dは「草壁」から青酸カリを入手するがやはり「お守り」として使っていた。
しかし女性Dは同じ病院の精神科の患者に「お守り」の話をしたことから、今回の事件に繋がった。 そう、「お守り」の話をしたのが女性Aだったのだ。 女性Dは女性Aに、「私はこういう『お守り』をもっている」と話したところ、女性Aから「私もそれがほしい」と言われたので、「草壁」のPHSの番号を教えたという。 その後、女性Aは「草壁」と直接、話をして青酸カリを入手した。
2月12日、警視庁捜査1課と高井戸署は「草壁」を自殺幇助容疑で被疑者死亡のまま書類送検した。 「草壁」の自殺は謎に包まれたまま事件は終焉を迎えた。