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恐怖の殺人の真実

パリ人肉嗜食事件

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パリ人肉嗜食事件

S。「パリ人肉事件」で世界の犯罪史に名を刻む男だ。
この事件は日本、フランスだけではなく世界中を震撼させ、ローリング・ストーンズの「Too Much Blood」の題材にもなった。

現在ではSは作家として、度々マスコミに登場している。
世界を震撼させるほどの猟奇殺人を犯したにもかかわらず、Sは何故、社会復帰ができたのか?
そこには、想像を絶する奇怪な物語が存在した。

― Sという男 ―
Sの祖父は朝日新聞論説委員であり、父は大手商社からの出向社長、叔父は歌手・俳優として活躍という、恵まれた家庭環境のなかで生まれた。
しかし、生まれた時は父親の手のひらに乗るほどの未熟児。出生1年後には腸炎を患い、カリウムとカルシウムの静脈注射で命を長らえるような状態であり、両親は果たして何歳まで生きられるかと心配していた。

Sは虚弱体質だったものの順調に成長していった。内向的な性格ということもあり、スポーツなどよりも自然と文学と芸術を好む傾向になった。文学では『嵐が丘』『戦争と平和』などのほか、シェークスピアに興味を示し、音楽ではベートーベンやヘンデルを愛した芸術少年だった。
高校時代には白樺派に傾倒し、志賀直哉の『暗夜行路』に影響を受けて短編小説を書いたことがある他、紹介状も持たず武者小路実篤に会いに行き、武者小路の書斎で1時間ほど面談したこともある。
また、この頃すでに人肉を食することに興味を抱いていたといわれ、精神科医にたびたび相談しにいったが取り合ってもらえなかった。

Sは、身長は150センチ足らず、体重は35キロという貧弱な体格へのコンプレックスも助長し、女性に対する性的な歪みは大きくなるばかりだった。
そして一般常識から見れば異常な性癖はやがて表に表れることになる。
大学在学時代には中年のドイツ人女性宅に無断で入り、逮捕された。しかし父親が支払った示談金により、告訴はされなかった。

Sは鬼畜に身を染めつつも1976年(昭和51年)、関西学院大学大学院英文学専攻修士課程を修了した。
翌年からフランスに留学、1980年(昭和55年)にはパリ第3大学大学院修士課程を修了した。
Sはエリートコースをひたすら進んでいた。
そして1981年(昭和56年)、パリを舞台に世界犯罪史に名を刻む猟奇事件を引き起こすことになる。

― パリ人肉事件 ―
1981年6月、パリ西部のブローニュの森で、小男がふたつのトランクを重そうに引きずり、それを湖に投げ捨てるのが目撃された。
通報により警察がトランクを引き上げ、ふたを開けると、中には女性のバラバラに切断された惨殺遺体が詰め込まれていた。
遺体の損壊は激しく、また腿の肉、それに唇と鼻が見当たらなかった。

被害者は留学生のオランダ人女性だと身元はすぐに割れた。
そして同時にSも逮捕された。Sはこのオランダ人女性と同じ大学内の友人で、目撃者が証言した小柄な体格と似ていたので逮捕は容易だった。
警察は、Sの家の冷蔵庫から被害者の唇、左乳房、腿の一部、左右の尻肉を発見。フライパンには調理済みの肉が残っていた。

「ほかの部分はどうした?」と警察が訊ねると。

Sは冷静に答えた。

「食べてしまいました」

― 犯行 ―
犯行当日、Sは彼女を自宅に招き、22口径で撃ち殺した。
そして彼女の衣服を脱がせ犯した。

その後、遺体を解体し写真を撮ったあと、遺体の一部(乳房、尻、大腿部)を切り取りフライパンなどで調理して食べた。
Sは鼻の先、唇、尻の肉、そして大腿やふくらはぎなどの柔らかい肉を、特に好んで食べた。
腹部を切開して、内臓を取り出した。腸はとてもきれいだった。

翌朝、ふくらはぎから足の裏にかけて生で食べ、陰部はフライパンで焼いて食べた。
首を切断後、鏡の前で自分の顔と見比べて叫んだ。
そしてバラバラになった死体をゴミ袋に入れ、トランクに詰め込んだ。

遺体を遺棄した翌日、Sは日本の食料品店に出向いて、すきやきの材料を購入。

店員から肉は買わないのかときかれ、「肉は家にありますから」と答えた。

― 無罪へ ―
Sは裕福な家庭で育ち、知性持ちエリートコースを歩みながらも、その貧弱な外見によるコンプレックスから闇に落ちていった。
逮捕されたときも、Sの細い腕にかかった手錠はそのまますっぽり抜け落ちてしまったという。

逮捕後、Sは父の雇った「フランスでもっとも高名で、かつ金のかかる弁護士」と呼ばれたフィリップ・ルメールの働きにより心神耗弱を認められ、無罪となった。
アンリ・コラン精神病院には無期限の入院とされたが、14ヵ月後、国外追放同然のかたちで退院となり、帰国後、都立松沢病院へ入院。
しかしこの病院もほぼ一年後の1985年8月に退院し、以後は精神治療を受けた形跡はない。

そしてSは今もこの日本で生き続けている。

― 現在 ―
S自身が事件の詳細について記した著書『霧の中』を発行。
また国内で猟奇殺人が起きるたびに、猟奇犯罪の理解者としてマスコミの寵児となり、忙しい時は月刊誌や夕刊紙など4紙誌に連載を持っていた。
講演やトークショーにも出演し、アダルトビデオ出演や風俗案内などもおこなった。
しかし、仕事も次第に減り、闇金に手をだし、生活は困窮を極めた。
2005年には両親が死去。親の遺産で借金を返し、ひっそりと暮らしている。

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