1932年(昭和7年)2月8日、愛知県名古屋市中村区米野町にある鶏糞小屋で、身元不明の腐乱死体が発見された。
体つきや着物の服装から女性と辛うじてわかるほどで、遺体は常識では考えられないほど損傷を受けていた。
頭は切断され、両方の乳房と局部、へそがえぐり取られていた。
遺体の近くには出刃包丁2丁と、女物の下駄と茶色の靴、白いメリヤスシャツ、数珠、そして風呂敷包みなどが置いてあった。
遺留品などから、遺体の身元は青果商の次女のM(19歳)と判明した。
― Kの逃走 ―
犯人の目星はすぐについた。
彼女と恋愛関係にあった和菓子職人・K(43)が、1月14日に仕事先の東京から舞い戻り、旅館で彼女と何度も会っていた形跡があった。
警察は、聞き込みの結果から、1月22日ごろKがMを殺害した上、遺体を切り刻んだと推測。
彼を指名手配したが、行方はつかめなかった。
そして2月11日。事件はさらに残酷な方向へ進む。
犬山城にほど近い犬山橋近くの木曽川河原で、Mの頭部が遺留品とともに発見されたのだ。
しかしその姿は凄惨きわまりないものだった。
頭髪が皮とともに剥ぎ取られ、頭蓋骨が剥き出しになっていた。上唇とあごの肉がなく、左耳は切り取られ、眼球は両方ともえぐり取られていた。下顎も刃物で著しく損壊されていた。
しかしKの姿はそこにもなかった。
― Kの末路 ―
3月5日。頭部の発見現場近くの茶店の主人が、掃除のため別棟の物置を開けようとした。
ところが、引き戸は中から鍵が掛けられていた。チカラを入れて扉を外して入ったところ、悪臭とともに信じられない光景が主人の前に現れた。
それは腐敗した首吊り遺体だった。
死後1ヶ月は経過したであろう遺体は腐敗が進んで猛烈な臭気を発していた。
またその姿は直視不可能なほどで、完全に常軌を逸していた。
頭には長い頭髪がついたままの女性の頭皮をカツラのように被っていた。頭皮には右耳もついていた。女性用の毛糸の下着の上に黒い洋服を着て、足にはゴムの長靴を履いていた。
上着のポケットには女性の財布が入っていたが、その財布に入れていたお守り袋の中身には女性の眼球が収められていた。
さらに小屋の片隅にあった冷蔵庫には、女性の2個の乳房、局部があった。局部からは、大陰唇と小陰唇がなくなっていた。
遺体の正体は、Mの体の一部を持ち去り、頭皮を被り、Mの体と一体化を果たしたKであった。
― Kという男 ―
群馬県で生まれ育ったKは、若い頃から神仏を篤く信仰し、死後の世界の存在を信じて疑わなかった。
後に和菓子職人となった彼は東京・浅草で和菓子店を営み、妻と子供にも恵まれていたものの、1923年(大正12年)の関東大震災で店を失った。
彼は妻子を捨て仕事を求める旅に出た。その道中でTという女性と知り合い、名古屋市に落ち着いて所帯を持つことになる。
Kは饅頭工場で働き、Tは裁縫を近所の娘達に教えていた。この裁縫教室の教え子の中に、被害者となるMがいた。
やがて健康がすぐれないTは裁縫教室を閉じて入院し、Mは師匠・Tの元へかいがいしく見舞いに通っていた。
その生活の中で、KはMと関係を持つようになる。1931年(昭和6年)秋、Tは看病のかいもなく病死。
Tの遺体は献体されたが、Kは妻の遺体が解剖されていく有様を、目もそらさず見守っていたという。
やがてKは、些細なことで工場を辞職。心機一転を図って12月に上京したものの、内向的な性格も手伝って仕事に躓くばかり。
そして昭和7年1月14日に名古屋に戻り、Mを旅館に呼び出した。その後は昼も夜も無く情事にふけった末、Mを最初の事件現場に連れ込んで絞殺、遺体を損壊した。
KがMと何があったか、その真相は闇の中である。
Kは愛するMとの一体化を望んだのだろう。
しかし発見された当時のKは、常軌を逸するほどのおぞましい姿であった。