1954年9月5日埼玉県入間郡。
F(当時29歳)は偶然、自分をふった女性を見かけた。
Fは過去にその女性にふられた憎しみから、女性を襲い殺害した。
遺体をナイフでバラバラに切断し、各地に捨てた。
ところが、新聞記事でFは衝撃的な事実を知ることになる。
新聞にはFが殺してバラバラにした女性の身元が載っていた。その名前は「自分をふった女性」ではなく、まったくの別人だったのだ。
「あれは人違いだった」
11月にFは逮捕され、そう供述した。
そのあまりにも以外な供述に誰もが愕然とした。
― Fという男 ―
Fは1929年に山梨県で生まれた。
盗みや夜遊びに明け暮れ、物心がつく頃に地元では「手のつけられない不良」になっていた。挙句の果てには盗みで逮捕され少年院に収容された。
そんなFは7歳下のB子さんという女性と知り合って夢中になった。
両親を連れてB子さんの実家に出向き結婚を申し込んだが、前科者であること、定職がないこと、軽薄な性格であることなどから断られた。
上京して何とか職についてB子さんの気を引こうとしたが、長続きはしなかった。増えたのは窃盗の前科だけである。
Fは故郷に戻ると、B子さんに会いに行ったが、彼女の方はFを嫌っていた。
そしてFから逃れるように東京や埼玉などの旅館で女中として働き始めた。
Fはそれでも彼女の実家や親戚宅を尋ね歩いて、居場所を聞こうとしたが、誰も教えてくれなかった。
53年7月、B子さんの両親は「結婚は無理だ」とはっきり明言。娘を姉のいる埼玉のもとに避難させた。
Fは後を追いかけたが、その都度B子さんも転々としていた。
そうした生活に疲れたのか、Fは約1年間は真面目に働いた。
「あんたが真面目に職につかねばB子は出てこない」と彼女の家族に言われていたためで、映画館に勤めて看板描きやビラ貼りの仕事をした。
しかし、B子さんがすでに誰かと結婚しているのを隠しているのではないか、と邪推したFは、54年9月1日、町を出てB子さん探しの旅に出た。
そしてB子さん探しの旅の最中に今回の事件は起きた。
― 犯行 ―
1954年9月5日夜9時ごろ、埼玉県入間郡の路上を歩いていたFは、前方にB子さんらしき女性を見つけた。
雰囲気、体型からB子さんだと確信した。
B子さんへの愛が恨みに変わっていたFは、
「俺はお前を呪っている!覚悟しろ!」
と叫んで、いきなり女性の首を絞めて畑に引きずりこみ、手拭を首に巻きつけ殺害。
ナイフで乳房と陰部を切り取ってから遺棄した。
翌日、Fは事件を報じる新聞記事を見て、殺害した女性が初めてB子さんでないことに気づいた。
彼が殺害したのは19歳の女性で、青年団主催の運動会の帰り道だった。
― Fの最後 ―
「人違いだった」
1954年11月18日に逮捕されたが、Fの呆れた供述に警察も社会も怒りを覚えた。
しかしFから反省の態度は見られなかった。
「殺しはB子さんを愛するが故にやったことだ」と主張した。
56年2月21日、浦和地裁は無期懲役を言い渡した。この判決に「俺は悪くない」と控訴した。
8月21日、二審の最終尋問でB子さんが証人として出廷。次のように証言した。
「Fは私を勝手に恋人と思っているだけです」
その時、Fは逆上し、隠し持っていた竹べらでB子さんに飛びかかった。B子さんは胸を刺され、全治2週間の大怪我を負った。
8月30日、一審を破棄、死刑判決。判決には証人刺傷事件の影響があった。
57年7月10日、最高裁、上告棄却。死刑確定。
59年5月27日、死刑執行。
収監中、Fが描いた獄絵はそのときどきの心境を表した地獄絵図から山水花鳥にいたるまで百数十点に及んだ。
またFは、B子さんに否定され続けたにもかかわらず、周りの人間にB子さんがいかに素晴らしい女であったかを語っていた。