―凶行の始まり―
2004年11月17日午後6時45分、奈良市学園大和町の会社員(当時30歳)の妻・A子さん(当時28歳)が、「長女で小学校1年生のB子ちゃん(7歳)が、学校から帰宅していない」と警察に通報した。
その後、B子ちゃんの持っていた携帯電話から、母親の携帯電話に「娘はもらった」というメールが、B子ちゃんの画像と共に送信されてきた。
奈良県警はすぐさま、誘拐事件として捜査を開始した。
携帯電話の発信場所は奈良県平群、三郷、王寺町付近だった。この女子児童の母親は、万が一の犯罪に備えてその女子にGPS機能付の携帯電話を持たせていたが、誘拐犯はその機能について知識があるらしく、メールを発信後、携帯電話の電源を切るか、その機能をOFFにしていた。
悲しいことに翌18日午前0時過ぎ、平群町菊美台の宅地造成地の道路側溝でB子ちゃんの遺体が見つかった。
遺体には別人の毛髪や体毛が付着し、女児と異なるB型の血液が検出された。
司法解剖の結果、水死と判明。肺にたまっていた水は汚れていなかった。水道水を張った風呂場か洗面器に顔を押し付けて、水死させたと思われる。
手足にはすり傷があり、歯も殺害後に数本抜かれていた。いずれも殺害後に加害したものと判明した。
また、被害者を裸にし、殺害後に服を再び着せたと見られた。被害者の衣服には毛が付着していたが、鑑定の結果B型とAB型の血液であることが判明する。
―目撃証言―
B子ちゃんが連れ去られるところは同じ小学校の児童2人に目撃されており、「女児が自分から車に乗りこんだ」と証言した。
警察は、当初は顔見知りの犯行と考え捜査した。
犯行に国産の車が使用されていることは、目撃証言からわかっていた。小学校の児童は、車の色については「黒か紺」あるいは「白」と証言していた。
しかし別の通行人の男性が、現場を行ったり来たりしていた不審な車両を目撃している。それはハッチバック式で緑色の国産車であった。この証言を裏付けるように、現場近くに設置された防犯カメラにその車両は複数回映っている。
年の瀬も押し迫る12月14日午前1時過ぎ、誘拐されたと思われる女児の携帯電話から、父親の携帯電話に「今度は妹をもらう」というメールが送りつけられた。発信地域は奈良県河合、上牧町付近であった。
―容疑者逮捕―
12月下旬、ひとりの男が容疑者として逮捕された。
三郷町の新聞販売所従業員のK(当時36歳)だった。
きっかけとなったのは、女児の携帯電話から容疑者の携帯電話にメールが発信されていたことを突き止め、その通信記録から警察は容疑者を割り出した。
12月30日、奈良県警察本部は、新聞販売店店員だったKの自宅を家宅捜索した。B子ちゃんの携帯電話とランドセル、ジャンパーなどを発見し、問いただすとKは犯行を認めたため、その場で逮捕された。
翌2005年1月19日、Kは殺人と死体遺棄容疑で再逮捕された。
Kは小太りの体型で色白、もっさりとした髪型の男で、彼の自宅マンションが家宅捜索されると、幼児ポルノのビデオ80~100本、ロリータ雑誌、それに盗んだと見られる女児の下着や衣類が約80枚、ダッチワイフが押収された。
いわゆる小児性愛者であった。
当初は、顔見知りによる犯行として捜査されていたが、実際には容疑者は女児とは面識がなかった。Kの自供によると「女の子なら誰でもよかった。」という行きずりの犯行であった。
事件当日の3時20分頃、声をかけて車に乗せたB子ちゃんを約11km離れた自宅に連れこみ、しばらく宿題などを手伝った。
それから風呂場でいたずらしようとしたが手をかまれてカッとなり、浴槽にはった水に顔をつけて、動かなくなったのを見て、さらに全身を沈めて水死させた。
携帯電話で撮影したことについては、「殺したことを親に知らせたかった」と供述した。
Kには過去に幼児への強制わいせつの前科があり、この事件以降性犯罪者を登録・監視する米国のミーガン法(インターネットで性犯罪者の情報を公開する)のような法律が日本にも必要ではないかという議論がされ始めている。
―裁判―
2005年4月18日に初公判が開かれた。
Kは殺人、強制わいせつ致死、脅迫など8件の罪で起訴された。奈良県内での別の女児への強制わいせつ罪や滋賀県内での女性用衣類の窃盗罪も含まれていた。
2006年2月14日、Kの情状鑑定書が奈良地裁に提出された。鑑定は2005年10月~12月に面接などを通じて行なわれた。その結果、犯罪などを繰り返す「反社会性人格障害」と診断された。
3月27日、第6回公判でKは「(情状鑑定で)どう答えれば悪い印象を与えられるかを考えた。元から死刑を望んでいるので、減刑は望んでいない」と述べた。
6月5日、論告求刑公判がなされ、検察側は「自己の性欲、支配欲、自己顕示欲を満たすための計画的な犯行で卑劣かつ極悪、残虐極まりない。被害児童の両親の処罰感情も峻烈。被告人は真しな反省や謝罪の態度を示していない上、更生意欲が欠如しており、矯正はもはや不可能」と指摘し、K被告に死刑を求刑した。
検察はKの述べた供述を朗読した。
「反省の気持ちも更生する自信もない。早く死刑判決を受け、第二の宮崎勤か宅間守として世間に名を残したい。」
―死刑確定―
2006年9月26日、奈良地裁での判決は、「生命をもって罪を償わせるほかない」と求刑通り死刑を言い渡した。
言い渡しのあと、自席に戻りながら、Kは傍聴席に視線を向け、着席するとにやりと笑って、小さくガッツポーズをし、目を閉じて何度かうなずいている。
2006年10月10日、Kは控訴を取り下げ、死刑が確定した。
―事件の背後に潜む暴力―
この事件の背景には、Kが幼少時から父親に暴力を振るわれていたことがあると思われる。Kを父親の暴力から守ってくれていた母親は、Kが10歳の時に難産のために亡くなった。
この時に生まれた弟に障害が残ったため、家族は弟の世話に時間を取られ、Kは孤独な状況に置かれていた。
中学時代には、左目の視力が低いことなどを不良グループからからかわれ、いじめられていた。経済的にも苦しい家計で、小学校の頃から新聞配置のアルバイトで稼ぎ、中学卒業とともに就職した。
弁護側は2006年6月26日の最終弁論で、こういった環境の事情を考慮してほしいと述べた。
幼少期の苦節した家庭環境が、Kの人間としての尊厳を砕いてしまったのかもしれない。