昭和34年7月22日午前1時半頃、埼玉県岩槻市にある農家から出火し全焼した7名の焼死体が発見された。
遺体はこの家の主人(当時63歳)とその義父(同75歳)、主人の息子の嫁(同28歳)と4歳、1歳、生後2ヶ月の男児、そして主人の姪(同10歳)の7人と確定、警察は不審火による火災と判断し、殺人事件として捜査にあたった。
そして疑惑の目は事件発生時に留守だった息子であるM(当時24歳)に向けられた。
Mは前日、従兄弟宅に家中を焼き払うというメモを残したり、妻の実家に投石をしたりと、不審な行動をしていた。また事件の前にガソリンを購入していた。
警察はMを全国に指名手配をした。
Mは午後8時ごろになって越谷市の小料理屋で飲食をしたあと、突如外に裸足で走り出して車に飛び込んだ。自殺未遂を図ったのだ。 結局Mは全治三週間の怪我を負い、そのまま逮捕された。
― 犯行動機 ―
Mは逮捕後、犯行動機を「家庭不和」であるとした。Mは妻と無理やり見合い結婚をさせられ、別れたかったと主張した。
この一家の家族関係は複雑で、伯父に子供がいなかったため、実弟を養子にしていたが伯父の妻が他界し、この家で家事を担う女性が不在になった為、Mを見合い結婚させることにした。
しかしMは嫁を気に入っていなかった。4歳も年長であるうえに、容姿もMの好みではなかった。
近所とのコミュニケーションもできなく、不満は募っていった。そのうえ姪は姉が結婚するときに実家に残していった子供で、Mの家計はより苦しくなっていった。
そのため、Mは自暴自棄になり、勝手に土地を処分し、テレビを購入して家族に戒められたりもした。
Mは八方塞りの境遇から抜け出したいと思い一家心中しようと考えたのだ。
検察はMに対し死刑を求刑したが、一審の浦和地方裁判所は1960年2月25日に無期懲役判決を出した。
一審の判決文は「一面からいえば彼も心ない親の犠牲者とはいえないだろうか」とMに同情したものであった。
しかし検察は量刑不当として控訴し、二審では逆転死刑判決となり、最高裁も1963年4月30日に上告を棄却し死刑が確定した。
なおMがいつ死刑執行されたかは、現在も不明である。