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恐怖の殺人の真実

巣鴨子供置き去り事件

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巣鴨子供置き去り事件

―幽霊児―
1973年、ある男女が同棲したところからこの事件は始まる。
しばらく同棲が続き、2人は結婚することになる。婚姻届を書き、女は役所に婚姻届を出しておくようにと男に頼んだ。

その後この夫婦には子供が生まれ、妻は役所に出生届の提出を夫に頼む。妻が届けを出したか尋ねると「出した」と答えが返ってきた。

ごく普通の夫婦生活が一変したのは、夫がよそに女を作り、会社の金を使い込んだうえ蒸発してしまってからである。

長男が小学校に入学する年になった。ところがいつまでたっても就学通知がこない。結局、入学時期はすでに過ぎてしまった。

「おかしいな」と思い、母親が重い腰をあげて役場に訪ねてみると、やっと事実が明らかになる。自分はまだ結婚しておらず、子供の出生届も提出されていなかった。彼女は愕然とする。

家にいる子供は戸籍のない「幽霊児」であった。

通常なら彼女は、福祉事務所なり児童相談所なりの窓口を訪れるべきであった。しかし彼女の念頭にそんなことは思い浮かばなかったし、アドバイスしてくれる人もなかった。

彼女は以後、すべてを嘘で固めて生きていくことになる。
この事実がわかった後のつじつま合わせの嘘は、目を覆うものばかりだった。

「わたしは六大学のK大学を出て、いまはMデパートの外商部に勤務しています」

「亡くなった夫は外交官でした」

「息子はR中学に通っています」といった具合である。

マンションへ入居する際には「これ、うちの職場で扱っているものですけど」とわざわざ説明し、Mデパートの品物を隣近所に配り歩いていた。

その後も彼女は何人かの男性と知り合い、妊娠しては自宅出産するということを繰り返した。出生届は一度も出していない。

結果的に彼女が産んだ子供は5人。次男は病死したが、出生届を出していないので戸籍がなく、死亡届も出せない。もともと「生まれていない」とされているものを「死んだ」と届けられるはずもない。

彼女はすべてが明らかになるのを怖れて、隠し通すためのウソをつかねばならない。次男の死体は、ビニールで包み消臭剤を詰めて押入れに隠した。

長男はそんな母親の側で下の子たちの面倒をみながら成長していった。母親は長男を「とてもしっかりした子」と思い、下の子の世話を全面的に任せ、自分はデパートの売り子をして子供たちを食べさせていた。

―生まれていなかった子供―
しかしまた生活を一変させる出来事が起こる。

1988年1月、母親に新しい男ができた。その男と同棲するため母親は、子供たちをマンションに置き去りにして出ていってしまった。

長男には
「妹たちのことをお願いね。おかあさん、たまに様子みにくるから。お金は書留で送るわ」
と言い伝えた。

当時、長男は14歳。妹3人はまだ7歳と3歳と2歳であった。母親が毎月仕送りしていた額は7~8万だった。たまに電話をしたり、駅のハンバーガーショップに長男を呼び出して「家の様子はどう?」と訊く程度で、いつも子供たちの住むマンションには寄ることなく、彼女は男と住む家へ帰っていた。

―捨て子の城―
こうして子供たちだけの閉ざされた世界ができていった。

学校にも通わず、存在を秘匿された人間だとはいえ、家だけに閉じこもるわけにもいかない。長男は妹たちのための食事や生活用品を買うために外の世界に必要に応じて出ていった。

法律上存在するはずのない彼に友達ができた。Aは、家庭が複雑なこともあり学校にほとんど不登校の状態だった。もうひとりのBは、家庭はあり学校には通っていたが、攻撃性が強く孤立していた。結局引き寄せられるように、学校帰りに閉ざされた家に寄り付くようになった。

長男はしっかりしていたとはいっても、14歳である。幼い妹たちに食べさせるものは、菓子かカップラーメンか、冷凍食品である。

友人ができると長男は、妹たちの世話をしなくなっていった。家の中は汚れ、オムツがまだ必要な下の妹ふたりには、マメに換えてやっていたのは最初のうちだけで、金が乏しくなってくると変えの新品は買えない。2ヶ月も経つと、オムツの交換は1日1回換えればいい方、という有様になっていた。

妹たちは育ち盛りに栄養のあるものを食べていないから、栄養不良で動作は緩慢だった。糞尿の匂いが充満し、よく泣く。そういった毎日が続くうち、長男はだんだん妹たちに対し「面倒くさい」「うとましい」という思いが強くなり、家に居ついた友達ふたりを優先させることが多くなってきていた。

―ボールになった女の子―
1988年4月21日、Bが買い置きしておいたカップラーメンがなくなっており、空腹になった妹のうち誰かが食べたのだろうと騒ぎ始めた。

Bが問いつめると、どうやら三女が食べたらしい。怒ったBは、まだ2歳の三女を殴った。この折檻には、長男とAも加わった。

ひとしきりそれが収まると、今度は三女がお漏らししたらしいことがわかる。Bがまた折檻すると言い出し、今度は長男とAは「勝手にやれば」と言って、隣の部屋へTVを見に出ていった。

Bは押し入れの上の段から三女を何度も落とし、何度もやっているうちに面白くなり、頭から落としたり、落ちてくるところを足で蹴り上げたりし始めた。三女はボールのように蹴りまくられ、ぎゃあぎゃあ泣きわめく。その声が面白かったのだろうか、繰り返し蹴りあげて行為はだんだんエスカレートしていった。

ふっと長男が気づくと、隣室が静かになっている。覗いてみると三女がぐったりしてBの足元に倒れていた。

「大変だ!これ、死んじゃうかも。」

救急車、あるいは母親に電話をするなどいろいろ考えたが、救急車を呼べばすべてが発覚しまい、母親に電話をすれば怒られる。結局どうすればいいかもわからないまま、人工呼吸の真似を施したり、布団をかけて体をあたためたりした。

加害者のBは「7時だし、家に帰らなきゃ。」と言い残してさっさと退散してしまった。

―死者の遠足―
翌朝、長男が目覚めてみると三女はもう冷たくなっていた。

死んだあとの処置はといえば、母親が次男が死んだときにやっていたことを真似るしかなかった。

ビニール袋に死体を入れ、消臭剤を入れて押し入れにしまいこんだ。しかし消臭剤の量が足りず悪臭を放ち、部屋には置いてはおけないということになった。

4月26日、長男とAは三女の死体をボストンバッグに詰め、電車で秩父市の公園に行った。(Bは責任のがれをして同行しなかった)秩父を選んだのは、昔Aが遠足で来たことがあるからと、長男が「死んだ妹に山を見せてやりたいから」という理由からだった。

2人は駐車場脇の雑木林に死体を捨て、上を木の葉や枝で覆った。

7月に入って、「どうもあそこは子供たちだけで暮らしてるようだ」と大家が警察に通報する。警察から福祉事務所に連絡がまわり、相談員が訪問すると、子供が3人遺棄されているのが発見された。特に長女と次女は栄養失調で衰弱がひどく、ただちに保護された。AとBは部屋にはいなかった。

―失われた子供―
警察の家宅捜査の結果、次男の死体が押入れから発見される。事件はまたたく間にマスコミにも広がり、TVや新聞での報道がされる一方、「母親はどこにいるのか?」という呼びかけが起こった。

報道を見た母親は「もしかすると私のことか?」と考え、警察に出頭した。子供たちと面会し、そこで初めて「子供が1人足りない。」ということがわかった。

母親は保護者遺棄の罪で起訴された。さらに次女が、全治1ヶ月半の重度の栄養失調だったため、致傷罪も追加され、懲役3年、執行猶予4年の判決が下された。

長男は三女に対する傷害致死、死体遺棄で起訴された。しかし事情聴取によってAとB(特にB)の関与が大きいことがわかった。

長男には同情する余地が大きいとして、Aは救護院送致、またBは保護観察となった。長男は養護施設に送られ、そこから学校に通学することになる。

長女と次女は保護センターから養護施設に送られたが、母親に引き取られた。

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