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恐怖の殺人の真実

戦後最大の誘拐殺人事件

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戦後最大の誘拐殺人事件

―日本で初めて報道協定―
報道協定とは、テレビ・ラジオ・新聞などの報道機関が、事件の取材・報道にあたり、人命尊重や人権侵害防止などの観点から、その取材方法や報道形態に自主的な制限を加えることである。

被害者に対しての被害拡大防止と家族のプライバシー保護の観点から、誘拐事件の際には、この報道協定が結ばれる。

初めての報道規制になった事件がYちゃん誘拐殺人事件であった。

この事件は、犯人が身代金奪取に成功したこと、迷宮入りギリギリだったこと、事件解明まで2年3ヶ月を要したこと、犯人の声をメディアが公開したことによって国民的関心事になったなどから、『戦後最大の誘拐事件』と言われている。

―誘拐事件発生―
1963年3月31日東京・台東区入谷町に住む建築業者の長男であったYちゃん(当時4歳)が自宅近くの入谷公園(東京都台東区)に遊びに出掛けたまま行方不明になった。

まず両親は我が子が迷子になったと警察へ届け出た。当初、行方不明事件として付近を捜査したが見つからなかった。

翌日の4月1日になって、Yちゃんらしき男の子が、公園で30代の男性と話をしていたという目撃情報を得たことから、誘拐の可能性ありとして、警視庁捜査一課は捜査本部を設置した。

4月2日の午後5時48分に、犯人から身代金50万円を要求する電話が入る。この時点で警察は誘拐事件と判断し、報道機関に対して報道の自粛する報道協定が結ばれた。

この対応は、3年前に発生したMちゃん誘拐殺人事件(東京鞄屋社長令息誘拐殺人事件)が発生した際、過激な報道合戦の末に起きた悲劇を繰り返さないためにという判断がされたためだ。

―脅迫電話―
4月3日午後7時15分、犯人から「子供は返す、現金を用意しておくように」との電話が入る。

4月4日午後10時18分、また身代金を要求する電話が入った。警察は電話を4分以上に引き延ばし、犯人からの通話の録音に成功した。

以下、通話記録の一部

母親「子どもは無事ですか?」

男「はあ?」

母親「子どもは?」

男「うーとね、元気でやってます」

母親「そうですか。声だけでもいいですから私、聞かせてもらいたいんですけど」

男「聞かせるからね、スンブンガミ(新聞紙)に包んでね、用意しといてよ」

母親「あのう、お金はね、もう、用意して待っているんです。私、もうホントに、どうしていいか分からないんですよ」

男「だからね、金はどっか一定の場所に置いてもらって。」

母親「ああ、置いてあります」

男「金を受け取ったらね、お子さんを返すようにすっからね」

母親「ああ、そうですか。その前にね、確実に坊やがいるってことを私に知らせないと、ホントにお金もあげられないんですよ」

男「うっかり、こっから(子どもを)表なんか連れて歩けないよ。それができんなら、別にね、何も心配しねんだよ」

母親「でも、確実にお宅ですか?」

男「まつげえないよ」

母親「間違いないですか?」

男「ああ、まつげえないよ」

―犯人現れず―
4月6日午前5時30分、犯人から「上野駅前のS銀行脇の電話ボックスに現金を持って来い、警察へは連絡するな。」という電話が入る。

約束の時間に犯人は現れず、母親は「現金は持って帰ります、また連絡ください」とのメモを電話ボックスに残して自宅へ戻った。

犯人は警察の存在を知り、現れなかったのだ。

―身代金受け渡し―
4月7日の午前1時25分、犯人から「警察に連絡しないこと。時間はこれからすぐ。受け渡しの場所はS自動車。その建物の横に車が5台止まっている。前から3番目の小型4輪の荷台に目印としてYちゃんの靴を置いてきたので、そこに金を置いておけ。車で来てもいいが、車から降りるのは母親1人だけにしろ。金を置いたらまっすぐ家に向かうこと。
Yちゃんは、金をもらった1時間後に返す。」という身代金の受け渡し方法を指示する電話が入る。

犯人の指定した現金受け渡し場所は、被害者宅からわずか300mしか離れてない場所にある、自動車販売店にある軽三輪自動車だった。

指定された場所には、Yちゃんの靴が置いてあった。母親は身代金の入った封筒(50万円)をその場所に置く。犯人を刺激しないため、封筒の中身は本物の紙幣だった。

捜査員は走って現場へ急行したが、命令系統の不手際で一番先に現場へ到着した捜査員でも、車より3分遅れてしまった。

不幸にも警察が到着する前に犯人は身代金を奪取し、逃亡していた。

張り込み捜査員の1人が、現場から立ち去る背広姿の男とすれ違った。しかし問題の車を目指し、急いでいたため職務質問をしなかった。

これ以降犯人からの連絡は途絶え、Yちゃんの行方はわからぬままとなった。

―公開捜査―
お金を奪われてから6日後の4月13日の朝、顔をこわばらせた警視総監は、マスコミを通じて犯人に異例の呼びかけをした。

「罪を憎んで人を憎まずの気持ちでいる。犯人よ、どうかYちゃんだけはどのような方法でもよいから、返してほしい」そう言うと犯人に対して頭を下げて懇願した。

4月19日、警察は初の公開捜査に踏み切った。これにより、行方不明事件が営利誘拐事件であったことが、初めて一般市民に知らされた。

また、警察の犯人取り逃がしという失態もマスコミから流され、厳しい批判の目が警察に向けられた。

4月25日からは脅迫電話の録音をテレビやラジオで公開する。

低く落ち付き払った犯人の声は、特徴的な言いまわし(新聞紙→スンブンガミ)やなまり(間違いないよ→まづげえないよ)があったことから、犯人像は、40歳~50歳の関東北部から東北出身で、しかも入谷付近の土地勘がある男と考えられた。

公開捜査により、警察には声が似ている人を知っている、という通報が1万件も寄せられ、捜査員はそれらの情報を丹念に調べていった。ポイントは、声が似ているか、犯行当時のアリバイ、奪取されたお金の3点であった。

―重要参考人―
警視庁捜査一課のYちゃん事件特捜班は、K(32歳)を営利誘拐の容疑で拘留した。

5月21日から3週間もの間、警察はKを取り調べたが、決定的な自白や証拠を挙げることが出来ず、釈放した。

その理由として声が似ていないこと、警察が特定した犯人の声は40歳~50歳で、Kは30歳だったこと、見た目にもはっきりと分かるくらい右足が湾曲し、歩き方に特徴があるため、人目にもつきやすく、素早く身代金を奪った犯人とは考えられなかった。

逮捕当時、20万円ほど現金を所持していたが、その金は密輸で稼いだと証言している。またアリバイもあり、3月27日から4月3日にかけて福島に帰省していたと自供していたためである。

捜査捜査は長引き、事件後既に2年の歳月が流れていた。

捜査が長引いている理由は以下のようなものだった。
・身代金の紙幣のナンバーを控えなかった。
・犯人からの電話について逆探知をしていなかった。
・脅迫電話の声の主を「40歳から55歳くらい」と推定して公開し、犯人像の絞り込みを誤っていた。

その当時、警察には誘拐事件を解決するためのノウハウがあまりなかったのだ。

―捜査本部解散と執念の再捜査―
昭和40年3月31日、事件から丸2年経ち、ついに下谷北署の捜査本部は解散となった。しかし捜査は終了したわけではなく、警視庁捜査一課に少数の専従捜査員の本拠を置き、捜査を継続することになった。

さらに警察史上に前例のない大胆な決断を下した。捜査方法にFBI方式とよばれる米連邦検察局が実施している犯罪捜査方式を導入し、事件当初から捜査に当たっていた4人だけを残し、新しい捜査員を投入して白紙の状態から再捜査をするというものだった。

陣頭指揮には部長刑事Hがあたった。H刑事はKのかつての元恋人のところに出向き、新しい情報を得た。

事件直後、Kが密輸で20万円を稼いで元恋人に預けたことは知っていたが、別に弟に30万円ほど見せびらかしていたという。合計すると50万円。身代金の額と一致する。

H刑事はKのアリバイを崩すため、Kの故郷である福島へ再捜査に出向いた。福島で調べてきたアリバイと自白の矛盾を直接Kに突きつけた。追い込まれたKは、まず4月2日に東京にいたことを認めた。

それでもKは1963年4月に持っていた金は事件と無関係と主張したが、H刑事は「これだけ材料を突きつけられてまだ逃れられると思っているのか」とKを言葉巧みに追い詰めた。

ついにH刑事の取り調べに対して、Kは金がYちゃん事件と関係のあるものだと供述し、翌日に警視庁へ移された。

Kは営利誘拐・恐喝罪で逮捕され、その後の取り調べで全面的に犯行を自供した。Kの供述からYちゃんに足が不自由であることを見られたため、Yちゃんを親に返せば自分が犯人と特定されると考え、誘拐直後に殺害したことが分かった。

身代金の脅迫電話を掛けた1963年4月2日には、既にYちゃんは殺害されていたわけである。

―遺体―
Yちゃんは自宅から直線距離にして700メートルのところにある寺の墓地に埋められていた。遺体は2年以上も放置してあったため、白骨化が進んでいた。

遺体はいったん警察で解剖されたあと寺に納められた。その寺には、幼い子供の魂を供養するために2メートル以上もある地蔵尊が祭られた。

―裁判・判決―
1966年3月17日、東京地方裁判所がKに死刑を言い渡すが、弁護側が計画性はなかったとして控訴。

同年9月から控訴審として計3回の公判を行なったが11月に東京高等裁判所は控訴を棄却。

弁護側は上告したが、1967年10月13日、最高裁判所は上告を棄却し死刑が確定した。

4年後の1971年12月23日に死刑執行。享年38歳だった。

Kは処刑直前、担当した刑事あてに「私は今度生まれるときは真人間になって生まれてきます。」と言い残したと伝えられている。

―犯人の生い立ち―
Kは、昭和8年に福島県石川郡石川町の山間の貧農の10番目の子として生まれた。小学校への通学は家からは1時間もかかる山道で、靴も満足に履けない時代で、冬の通学は辛いものだったらしい。

小学4年生のとき、キズが元で右足が骨髄炎になり、その手術のため足が曲がってしまい歩行にも支障をきたし、学校を2年休学することになった。この不自由な足、休学したこと、同級生よりも2歳も年上になったことが、Kの人格を歪ませる原因となった。

小学校卒業後は、時計店に住み込みの見習い職人として働く。

16歳になると仙台市にある身体障害者職業訓練所の時計科で学び、卒業後は時計店に就職したが、肋膜炎を患い、療養のため帰省する。

再び20歳でデパートの時計部に就職したが、同僚が自分の足のことを嘲笑ったことに逆上し、また退社してしまう。その後は失業し、借金を重ね東京へと流れ着いた末、追い詰められて殺人という凶行に及んでいる。

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