―ボクちゃん―
1962年7月15日、高齢の両親に男の子が生まれた。年老いてからの子供ということもあり、「ボクちゃん」と呼ばれ、甘やかされて育てられた。
小学1年の時、父親が家を新築し、2階の十畳ほどの洋間をボクちゃんの部屋として与えられる。成長するにつれて虫を毛嫌いし、わずかな汚れも気にする神経質な性格が際立ってきた。
高校時代、ボクちゃんは成長し175cmほど身長になったが、覇気がない話し方から“オカマ”と呼ばれていた。高校では目立たない存在だったと当時の同級生は話している。
この頃から家の外では自分の殻に閉じこもるようになり、その抑圧された感情を家の中で発散するようになっていった。
高校を卒業したボクちゃんは、自動車部品製造の工員となった。ある日「クモの巣にかかって汚れた。」と言って、出勤する途中に家に引き返した。結局数ヶ月で退職し、そのあとまったく働いていない。
1981年7月、19歳になったボクちゃんは、父親が気に食わないと言って家から実の親を追い出す。母親とも口論となり、「私も出て行く」と言われたことから激昂し、家の仏壇に火をつけ、ボヤ事件を起こしている。
新潟県良岡市の国立病院精神科で強迫神経症と診断された。即日入院し、向精神薬を投与され、1ヶ月ほどで退院する。
―更生のキッカケ―
23歳になったボクちゃんは母親に「僕もそろそろ自立しなければならない。お母さんにいつまでも甘えているわけにはいかないので、独立して生活できるように家を増築してほしい」と話す。真面目に働くと思った母親は息子のために700万をかけて家を増築した。
しかし2階の自室に工事業者が踏み込むことを嫌がり、増築は中途半端なまま中止となった。就職するという約束もこれで反固にされた。
この頃から母親に対して、好きなアイドル歌手のレコードや、競馬新聞などを買いに行かせるようになる。競馬場の行きかえりも母親が車で送り、レースが終わるまでベンチに腰かけて待っている母親の姿が、競馬場の間にも知られている。
ボクちゃんは競馬に勝つと、使い走りでなじみの寿司屋まで母親を出向かせ、極上のトロのにぎりを買わせたことが幾度となくあった。
1989年6月13日、9歳の女児を下校途中の空き地にいたずら目的で連れ込もうとしたが、別の児童が学校事務員に通報し、取り押さえられた。
9月19日、新潟地裁長岡支部はこの男に対し懲役1年、執行猶予3年を言い渡す。
10月5日、刑が確定する。
裁判官は再犯の可能性は低いとして、保護観察処分ではなく、母親に監督・指導を任せた。柏崎署と新潟県警本部は、強制わいせつで検挙した男を「前歴者リスト」に登録しておらず、刑が確定したあとも登録漏れのまま放置していた。
―ペットの女の子―
1990年11月13日、午後7時45分、新潟県三条市内にある駐在所に、近くの主婦が「小学4年生の次女が帰ってこない」と届け出た。すぐに捜索が行なわれたが、発見できなかった。捜索は続けられたが、ついにA子の行方はわからないまま月日が過ぎた。
ボクちゃんが下校途中のA子にナイフを突き付けて脅し、車のトランクに押し込め、自宅に連れ込んでいたのだ。
部屋に連れ込むと「出られないぞ」「俺の言うことを守れ」と言いつづけ、数十回に渡りA子を殴打した。ナイフをA子の腹部に突き付けて「これを刺してみるか」「山に埋めてやる」などと脅した。逃げられないように外出中はA子を縛りつけていた。
1991年4月、柏崎市内のホームセンターで母親(当時64歳)に買わせたスタンガンをA子に押し当てて放電し、大変な恐怖心を植えつけた。大声をあげるとボクちゃんに暴力を振るわれるので、A子は自分の腕を噛んで痛みに耐えていた。
A子に競馬番組のビデオ録画を命じ、忘れたりすると殴打し、A子は常にベッドの上にいるように指示し、守らない場合は罰を加えた。
用便すらも部屋から出さず、ビニール袋の中に排便や排尿させたばかりか、体を洗うことも許さず、10年間の監禁の間に一度しかシャワーを使わせなかった。
食事はコンビニのおにぎりを与えていたが、2006年頃からはそれまで一日2個与えていたおにぎりを1個しか与えなくなった。
A子の筋力は低下し、骨量も減少して歩行も難しくなり、小学四年生時に46kgあったA子の体重は38kgにまで落ちて、栄養失調による失神をするようになった。
A子用の洋服は、ボクちゃんがショッピングセンターで万引きして手に入れていた。
母親とA子への暴力はエスカレートし、母親は午前10時から午後4時まで500円で過ごすことができる施設を利用するようになった。
73歳になった母親は限界を感じた、市内の精神病院へ相談に行き「息子を入院させてください」と頼んだが、病院は本人を連れてくることを求めた。当然、ボクちゃんは従うはずもなく、母親を殴打し、縛り付けてトイレにさえ行かせなくなった。
1999年12月、医師は母親の身が危険と判断し、自宅に乗り込むことを決める。
2000年1月12日、柏崎市四谷にあるボクちゃんことS(当時37歳)宅を訪問した保健所の保健婦が、2階の部屋で毛布にくるまったA子(当時19歳)を発見する。
母親はA子発見まで20年以上も息子の部屋には入っておらず、A子の存在も知らなかった。
「靴はないの。外に出られないから。」保健所職員などに付き添われて、家を出ようとした際、A子はそうつぶやいたという。長い月日の監禁が故の言葉だった。
A子は家族と実に9年2ヶ月ぶりに再会した。
―裁判経過―
2002年1月22日、新潟地裁はSに懲役14年を言い渡す。
1月24日、Sの弁護人は不服として東京高裁に控訴。
12月10日、東京高裁は一審を破棄、懲役11年を言い渡す。
12月24日、Sは二審の東京高裁判決を不服として、最高裁判所に上告。
2003年7月10日、最高裁は「併合罪は個々の罪を別々に処理するのではなく、全体を統一し処理すべきだ」との初判断を示し、懲役14年判決(控訴棄却の自判)で確定した。
Sの上訴は棄却された。