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恐怖の殺人の真実

阿部定事件

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阿部定事件

―動乱の時代―
1936年(昭和11年)2月26日、陸軍の過激な国粋主義の青年将校たちが「昭和維新」を旗印に重臣を殺害し、首都の中枢部を4日間に渡って占拠するというわが国の近代史上初のクーデターが起こった。

陸軍は収拾に手間取ったが鎮圧し、東条英機ら統制派が中心となり、日本は戦争への道を歩むことになる。

4月18日、国号を「大日本帝国」と統一。翌1937年(昭和12年)7月7日には盧溝橋事件が勃発し、日中戦争が開始される。

―遺体発見―
1936年(昭和11年)5月18日朝、東京市(現・東京都)荒川区の待合「M」に、男女の2人連れが泊まっていた。女だけが「水菓子を買いに行く」と言って外出した。

午前11時ごろ、なかなか帰って来ないので、女中が、2階の客間を覗いたところ、男が蒲団の中で惨殺されていた。赤い絹の腰ひもで絞殺されてい男は、頭を窓側にしてその顔には手ぬぐいがかけてあった。

蒲団の敷布には楷書で「定吉二人きり」としたためられ、男の左大腿部には血液で「定・吉二人」と書かれ、左腕には刃物で「定」と刻まれていた。そして男の局所が陰のうもろとも切り取られていた。

男は鰻料理店の主人の石田吉蔵(当時42歳)、逃走した女は「田中かよ」という偽名を使っていた阿部定(当時32歳)であることが判明する。


―死と快楽の果て―
1936年(昭和11年)2月1日、定は、東京市中野区の鰻屋「吉田屋」に女中として入り、すぐに主人の石田と懇意になった。石田の妻(当時43歳)にバレないように情痴を繰り返していたが、いずれは2人の関係が分かってしまうので、外の料亭などに泊まり込むことが多くなる。

定は、情痴を繰り返しているうちに石田を自分のものだけにしておきたいという気持ちが強くなっていく。

4月19日、定は石田と応接間で、灯りを消して情事していたところを女中に見られてしまい、妻に知られてしまう。

4月23日、定は石田と家出をし、渋谷の待合Mへ泊まる。

4月27日、定と石田は多摩川の料亭Tへ行き、寝床にまで芸者を呼んで酒を飲み、乱痴気騒ぎをしている。定は乱れに乱れ、小さくなっている石田のモノを舐めながら、酒を飲み、接吻する。

4月29日、名古屋へ金策のため、定は芸妓から10円借りている。

4月30日、名古屋で芸妓をしていたときの大宮先生(当時49歳)に会って100円と旅費をもらって帰り、石田の待つ待合に戻り、5月5日の夕方まで寝床を敷きっぱなしにして石田と延々と情痴の限りをつくす。

5月11日、定は妾として別宅に暮らしていたが、絶対に石田だけは離したくないという気持ちがあった。

5月12日、いつもの待合で、石田が「首を絞めながら情事をするととても感じるらしいぞ。」と定に言うと、定は「それでは絞めて頂戴。」と答えた。石田はあまり気乗りしなかったため、逆に定が上になって両手で石田の首を絞める方になる。首を絞める行為にヨロコビを覚え始める。

5月15日、定は上野で肉切り包丁を買う。この日は、東京駅で大宮先生に会い、情事をして50円もらったあと、再び待合で石田と会っている。

5月16日、定は「今度はひもで絞めるわよ」と言って、枕元にあった自分の腰ひもを手に取り、石田の首に巻きつけて、両手でひもの端を持ち、定は石田の上に股がって交わったまま首を絞めたり緩めたりした。

定「首を絞めると腹が出てオチンコがピクピクして気持ちがいい。」

石田「お前が良ければ少し苦しくとも我慢するよ。」

ヘトヘトに疲れた様子の石田に、
定「厭なんでしょう、厭ならもっと絞めるわよ。」

石田「厭じゃない厭じゃない、俺の体はどうにでもしてくれ。」と返す。

5月17日午前1時頃、寝ている石田の首に細ひもを巻きつけて絞めると、石田は定の偽名である「かよ」という名前を「かよ、かよ」と苦しそうに叫んだ。定もその苦しそうな声を聞くと現実に戻り、驚いてひもを解く。

首には二重の傷跡が残ってしまったが石田は少しも怒らず、鏡で自分の首を見て「ヒドいことしたなあ」と言った。

朝早く外出して、銀座で目薬と傷跡の薬とカルモチン(催眠鎮静剤)30錠を購入してきた。

介抱される石田は、定に「お前はオレが眠ったらまた首を締めるだろう。今度、絞めるときはそのまま緩めないでくれ。ひと思いに苦しまずに殺してくれ。」と言った。

5月18日の朝、定は石田の首を絞め、石田の言った通り緩めることもなくそのまま強く絞めて殺してしまった。

石田が死んだことが分かった定は、自分を楽しませてくれた石田の局所を切り取って自分の肌から離したくないと考えた。

「それは一番可愛い大事なものだから、そのままにしておけば納棺のとき、お内儀さんが触るに違いないから、誰にも触らせたくない」と警察で供述している。

―殺人までの人生―
1905年5月28日、定は、東京市神田区新銀町の畳屋の娘として生まれた。8人兄弟の末っ子だったが、死別や養子などで、残ったのは長男と次女、三女、それに定の4人であった。

実直で律儀な畳職人だった父親は、6人ほどの職人を抱え、忙しいときは10人~15人ほどの職人が出入りしてた。

定は小学校へ入学すると、派手好きで見栄っ張りの母親に勧められて、三味線を習う。10歳のとき、定はその家にいた職人からいろんな話を聞かされ、男と女のすることを知った。

15歳のとき、友達の家に遊びに行ったとき、たまたま居合わせた学生に処女を奪われて男を知る。初めての性交では大変な痛みがあり、2日くらい出血し、驚いて母親にこのことを話した。

母親はこの学生の自宅に抗議に行ったが、泣き寝入りになってしまう。

母親は「お前さえ黙っていれば分からないことだし、お前が知らないことを男がしたのだから何でもないよ。」と言って慰めた。

男を知った定は、神田界隈の不良少年と付き合うようになり、浅草へも男あさりに行くようになった。

18歳のとき、紹介屋を通して前借金300円で横浜市中区住吉町の芸妓置屋に抱えられ「みやこ」の名前でお座敷に出るようになる。

1923年(大正12年)9月1日、関東大震災(死者9万1802人、行方不明者4万2257人)に遭い、富山市清水や信州飯田町へと流れ「静香」と名を改めた。

その後娼婦となったが、26歳のときに脱走。以後、神戸のカフェーで「吉井信子」と名乗り、その後、大阪、横浜、名古屋を転々とし、カフェーの女給、高級娼婦や妾などになっている。

31歳で、名古屋の議員と知り合い、妾(てかけ)となる。

32歳のとき、東京市中野区の鰻屋で女中として働くことになり、そこの主人の石田に出会う。

―定を逮捕―
1936年5月20日午後5時半ころ、定は品川の駅前の旅館で逮捕された。

臨検で旅館を訪れた高輪署の刑事が、「大和田直」という偽名で投宿している女を怪しいと考えて、宿泊している部屋に踏み込むと、女はビールを飲んでいた。

「あんまりソワソワしないで、少しは落ち着いたら? あんたの捜しているのは定でしょう。」

刑事は無言のまま立ちすくんでいた。

「私が定よ。」

「からかうな、忙しいんだ。」
怒ったように言って、そのまま帰ろうとすると

「本当よ。私がお定!」

刑事 「えっ?」

あまりの冷静さに刑事のほうが慌てふためいた。

所持品を取り調べると、ハトロン紙で包まれた石田の陰茎が帯の間から出てきた。定は、切り取った石田の局所を眺めて舐めたり、ちょっと頬ずりしていたと語っている。他の所持品は、石田の猿股、褌、メリヤスのシャツ、刃渡り15センチの肉切り包丁があった。

各新聞は一斉に号外を出して「定逮捕」を報じた。

―逮捕後の定―
このとき、国会では2つの委員会が開かれていたが、委員長の緊急動機で会を中断、全員、号外を食い入るように読んだという。

定と関係した男たちは、彼女が絶頂に達すると体が震え出し、それからしばらく失神したと皆証言している。そのうちの1人、妾にとった名古屋の議員はこの事件のために職を失ったが、最初に定と関係したとき、欲情した定の愛液が多いことに驚き、別の病気ではないかと問いただしている。

これらの点から定の精神鑑定をした大学教授は、彼女を先天的なニンフォマニア(淫乱症)と診断した。

2人の男との関係が続いたことに対して、定は、石田を死んでもいいほど愛していたが、同時に議員を尊敬していたため関係を断てなかったと供述している。

2人が過ごした東京都荒川区の待合と定が逮捕された品川区の旅館は事件後に大繁盛した。待合では、事件のあった部屋に2人の写真を飾り、2人が使ったドテラや読んでいた雑誌まで展示していた。

一方旅館では、定が泊まった部屋を逮捕時のまま保存し、旅館の主人が熱弁をふるってその夜の定を語っていたそうだ。また、逮捕前日に定に呼ばれて体をもんだマッサージ師は、新聞社や雑誌社の取材謝礼で家を新築した。

11月25日、東京地裁1号法廷で第1回公判が開かれる。傍聴者は前夜から押しかけて列をつくり、やむを得ず、裁判所は午前9時開廷のところ、午前5時に入廷させるという異常事態だった。

12月21日、東京地裁は、定に対して懲役6年という軽い刑(未決勾留120日通算)を言い渡たす。

定、検事ともに控訴せず、定は女子刑務所の栃木刑務所に収監された。刑務所における定は模範囚で、女囚に課せられる作業を2人分ほど毎日テキパキと消化していた。

定の人気は刑務所収容後も衰えず、仮釈放で出所するかもしれないと期待して待ち構える、弁当持参で刑務所の門前にたむろする常連もいた。刑務所に送られてきた定への結婚申し込みは400通以上、出所後は1万円(現在の価値で換算すると約1600万円)で引き受けたいと申し込んできたカフェーが2つ、映画会社からもスカウトが来ている。

1941年(昭和16年)5月17日、前年の皇紀2600年祝典による恩赦で減刑され、奇しくも犯行から丸5年目のこの日、刑務所を仮出所した。

刑務所長の配慮で、定は「吉井昌子」と名前を変えて、誰にも過去を知られず暮らすことになった。その名前で結婚もし、戦時中は埼玉県に疎開していた。

だが終戦後、定とその夫が平和に暮らしているところに、新聞記者が取材で訪れた。夫は妻が世間を騒がせた定であることを知り、静かな暮らしは崩壊する。

その後、作家の長田幹彦主催の劇団で、自ら「定劇」のヒロインを演じて全国を巡業している。自分の知名度を利用したり、逆に利用されたりしながら温泉地の旅館の女中、料理屋の女中、バーやおにぎり屋など転々とする。

1959年(昭和34年)、某料理屋の女中頭として、東京料飲店同志会から優良従業員として表彰されている。

1971年(昭和46年)、千葉県市原市のホテルで、「こう」という偽名を使って働いていた。当時65歳という高齢に関わらず、若い男に金品を貢いでは気を引いていたと伝えられている。
ある日置手紙を残したまま姿を消して、以後、消息不明である。

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